
「失敗こそ成功の母」世界のHONDAを生んだ本田...
8/1(金)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/07/28
多くの方にとって、弁護士や裁判官という職業は男女問わず選べるもの、という認識が当たり前になりつつあります。しかし、ほんの80年前まで、日本では女性が法曹の道を歩むことは「夢物語」でした。その常識を覆し、道なき道を切り拓いたのが、三淵嘉子(みぶち よしこ)です。
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』の主人公のモデルとして再び注目された彼女ですが、その生き方や考え方には、現代の私たちにも響く多くのヒントが詰まっています。本記事では、三淵嘉子の生い立ちから、弁護士・裁判官としての歩み、そして彼女が大切にした価値観についてご紹介します。
三淵嘉子は1914年11月13日、シンガポールで生まれました。父は台湾銀行に勤務していた武藤貞雄氏。大正という時代にあって、父は「専門的な仕事を持つために勉強しなさい」「社会や経済を理解することが大切だ」と娘に説いていました。
この父の言葉が、嘉子の人生の大きな原動力となります。幼い頃から「女性も専門職を持つべき」と自然に考えていた嘉子さんは、東京都渋谷区で育ち、東京女子師範学校附属高等女学校(現・お茶の水女子大附属高校)を卒業。その後、「法律を学ぶ」といういばらの道を選択します。当時、女性が法律を学ぶということは、極めて困難なことでした。
1933年、弁護士法の改正によって女性にも弁護士への道が開かれました。しかし、そこには大きな壁が立ちはだかります。司法科試験の受験資格を得るには、専門学校や大学を卒業する必要がありました。しかし当時、女性が入学できる法学教育機関は、ほとんどありませんでした。
そんな中、嘉子は明治大学専門部女子部法科に進学。さらに同大法学部に編入し、1938年に司法科試験に合格します。この年、合格者242名のうち女性はわずか3名という狭き門でした。
さらには、司法科試験に合格しても、裁判官や検察官の道は男性にしか開かれていませんでした。嘉子は、弁護士という、唯一女性に開かれた法曹の道を選択するしかなかったのです。
1940年、第二東京弁護士会に登録し、嘉子は日本で初めての女性弁護士となりました。当時は「日本初の女性弁護士誕生!」と新聞に大きく取り上げられ、同じ志を持つ女性たちからも憧れの存在となります。満州から嘉子に会いに来た学生もいたほどでした。
しかし、そんな華々しいスタートを切った矢先、太平洋戦争が勃発。戦時下では「国が戦争をしているのに、私的な争いで裁判を起こすのはけしからん」という空気が広がり、民事訴訟の数は激減しました。弁護士としての仕事はほとんどなくなり、嘉子は母校・明治大学で教壇に立つことで、生計を立てる日々が続きます。
また、プライベートでは、かねてより親交のあった和田芳夫と結婚し、長男・芳武を出産。しかし、夫は戦争に召集され、戦病死。結婚からわずか4年半で夫と死別し、シングルマザーとして子供を育てることになります。
夫の死をきっかけに、嘉子は自らの人生と向き合い直します。経済的な自立の必要性を感じる中で、より「正しいことを追求できる」職業として、裁判官への道を志すようになりました。
しかし、ここでも大きな壁が立ちはだかります。司法科試験に合格しても、「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」という規定があり、女性には門戸が閉ざされていたのです。
「なぜ女性は裁判官になれないのか」──
嘉子はこの疑問と怒りを原動力に、1947年、抗議の意味も込めて裁判官採用願を提出。すぐには採用されませんでしたが、司法省民事部に勤務する中で、裁判や立法について実務経験を積むことになります。
この「下積み時代」は、嘉子にとって自分を見つめ直し、法曹界の本質に触れる貴重な期間となりました。先輩法曹との交流を重ね、「裁判官とは何か」「裁判の意義とは何か」を深く考えるきっかけにもなったのです。
1949年、いよいよ嘉子は東京地方裁判所民事部の判事補に任命され、念願の裁判官としてのキャリアをスタートさせます。その後、名古屋地裁で初の女性判事、1972年には新潟家裁で女性初の裁判所所長にも就任。浦和家裁、横浜家裁の所長も歴任し、1979年に定年退官するまで、約30年にわたり裁判官として活躍しました。
とりわけ家庭裁判所では、少年事件や家庭問題の審判に力を注ぎました。判事として5000人以上の少年少女と向き合い、彼らの更生と健全な育成を目指して尽力します。
嘉子が生涯を通じて大切にした価値観とは、どのようなものだったのでしょうか。
弁護士時代、嘉子は「依頼者のために白を黒と言いくるめること」に違和感を抱きました。本当に正しいことをはっきりさせたい。その思いが、裁判官へと転身する原動力になりました。
「職業としてではなく、不幸な方々の相談相手として少しでも力になりたい。どんな道を歩むにしても、世のため、人のために自己の最善を尽くしたい」──嘉子はこう語っています。
家庭裁判所の仕事では、調査官や同僚と率直に意見を交わし、少年や家族の多様な背景に目を向けました。調査官の価値観や経験も把握し、常に現場目線で物事を判断しようと努めました。
「少年は本当に変わりやすく、どんな少年でも改善の可能性を持っています」と、嘉子は遺しています。少年事件の厳罰化には慎重な立場を貫き、可能な限り社会復帰の道を模索しました。
女性であることを理由に道を閉ざされても、「なぜダメなのか」と問い続け、社会の先入観や制度の壁に果敢に挑み続けました。
嘉子が切り拓いた道は、今もなお多くの人に勇気を与えています。実際、現在の司法界では女性裁判官が全体の約24%、女性弁護士も約20%にまで増加しています。
嘉子の「誰も歩いたことのない道を、誠実に、しなやかに切り拓く姿勢」は、法曹界だけでなく、あらゆる分野で「壁」にぶつかっている方への大きな示唆となるでしょう。
三淵嘉子の生涯には、いくつもの逆境がありました。
それでも、嘉子は「自分にできることを、世のため、人のために」という信念を持ち続け、道を切り拓きました。
もしあなたが「自分の可能性に壁を感じている」としたら、三淵嘉子の生き方や考え方は、大きなヒントになるはずです。自分の正義や誠実さを信じ、「世のため、人のため」にベストを尽くす──その一歩が、未来を変える力になるのです。