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「美は努力の結晶」坂東玉三郎――その人生が芸術になるまで
ビジョナリー編集部 2025/11/28
坂東玉三郎――その名は、日本の伝統芸能を超えて世界の舞台芸術の象徴となりました。
舞台に立つその一瞬の“美”の裏側には、圧倒的な努力、葛藤、そして孤高の美学が刻まれています。本稿では、現代最高の女形と称される坂東玉三郎の人生と芸の軌跡をひもとき、その魅力の核心に迫ります。
料亭の五男に生まれる――幼少期から芸への目覚め
1950年、東京都大塚の料亭に五男として生まれた坂東玉三郎(本名:楡原伸一)は、幼い頃から体が弱く、小児麻痺の後遺症に苦しんでいました。家族の温かな愛情に包まれながらも、病院での孤独な治療やリハビリが日常の一部となり、「普通に歩く」ことすら簡単ではなかったのです。
しかし、彼の人生を大きく変えたのは、5歳のときに初めて観た歌舞伎の舞台でした。当時の大女形・六代目中村歌右衛門の圧倒的な美しさと華やかさに心を奪われ、「あんな世界に自分も立ってみたい」と幼心に思うようになったといいます。体を強くする目的もあり、幼稚園には通わずに日本舞踊を始め、やがて歌舞伎俳優・十四代目守田勘弥の妻で舞踊家の藤間勘紫恵に師事しました。この「踊り」との出会いこそが、玉三郎の人生を決定づける第一歩となります。
初舞台と歌舞伎界への道
踊りの稽古を重ねるうちに、その才能と情熱は周囲の目にも明らかになっていきました。7歳のとき、渋谷の東横ホールで坂東喜の字(ばんどうきのじ)の名で「寺子屋」の小太郎役として初舞台を踏みます。これは、子役としても大役であり、観客からも高い評価を受けました。
その後も子役として守田勘弥の舞台に立ち続け、14歳のときに「五代目坂東玉三郎」を襲名。守田勘弥の芸養子となり、本格的に歌舞伎の世界で生きていく決意を固めます。「これからは専門家として、今までの甘い生活はできないよ」と師匠に告げられ、朝から晩まで稽古漬けの日々が始まります。舞踊、三味線、鳴り物、義太夫など、あらゆる芸に真摯に向き合いました。
身長という“逆境”と、芸へのこだわり
歌舞伎女形としては大きすぎると言われる173センチの身長。舞台に立つと、他の女形より明らかに背が高く、時には観客の失笑を買うこともあったといいます。
しかし、玉三郎はここでも工夫と努力を惜しみませんでした。膝を折り、肩をすぼめ、立ち姿や動きで背を低く見せる方法を徹底的に研究。「美人画や浮世絵の女性像を参考に、自分の身体の見せ方を作り上げた」と語っています。身体への負担は大きかったものの、美の追求を最優先に、日々の稽古と舞台に全力を注ぎました。
若き才能、そして“玉三郎ブーム”の到来
10代後半からは次々と大役に抜擢され、その美しさと芸の力に、作家の三島由紀夫や澁澤龍彦らも注目。19歳で芸術選奨新人賞を受賞し、若くして「玉三郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こします。
歌舞伎十八番の「鳴神」では十二代目市川團十郎の相手役・雲の絶間姫を演じ、「海老玉コンビ」として絶大な人気を博しました。また、「桜姫東文章」での十五代目片岡仁左衛門(当時・片岡孝夫)との共演は「孝玉コンビ」と呼ばれ、歌舞伎ファンの間で語り草となっています。
養父・守田勘弥との別れ、そして苦悩の時代
1975年、法的にも守田勘弥の養子となり、名実ともに大名跡を継ぐ存在となりました。しかし、同年に最愛の師匠であり養父でもある守田勘弥が逝去。心の支えを失い、人気役者となった重圧も重なり、精神的なバランスを崩すことになります。
実は、玉三郎は若い頃から過労やプレッシャーによる「鬱」とも戦ってきました。2年半、1日も休まずに舞台に立ち続けた結果、食事も喉を通らず、立っているだけで辛い日々が続いたと振り返っています。そのたびに「踊れなくなるときが来るかもしれない」という危機感から、また新たな舞台へと、自分を奮い立たせて身を置いてきました。
歌舞伎を超えた表現者へ――海外進出と新たな創作
30代になると、その活動は歌舞伎の枠を飛び越えていきます。ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場への招聘、世界的アーティストとのコラボレーション、映画や新劇の演出にも積極的に取り組みました。ヨーヨー・マとの共演による創作舞踊、バレエ界の巨匠モーリス・ベジャールとの「リヤ王~コーデリヤの死」など、その芸域は国内外で高く評価されるようになります。
また、バレエへの情熱も強く、10代半ばから学んだ成果はプロのバレリーナと並んでも遜色ないほど。歌舞伎だけでなく、邦楽・和太鼓など異分野の舞台演出にも活躍の場を広げ、演劇界全体への貢献も続けています。
美と健康への徹底したこだわり
坂東玉三郎の生活は、舞台のための自己管理と美へのこだわりに貫かれています。自宅の照明はほぼ蛍光灯を使わず、自然な光やランプを好むという逸話も有名です。衣装の色合わせも、職人と直接会って確認するなど、細部にまで徹底した美意識が行き届いています。
食事も、脂身のない牛肉や野菜を中心に、純度の高いものだけを摂取。暴飲暴食や夜更かしは一切せず、打ち上げの席でも早々に帰宅し、トレーナーに体をほぐしてもらった後はすぐに休むというストイックな日常を送ってきました。
後進への惜しみない伝承と、歌舞伎界の未来
1996年、昭和の大女形・六代目中村歌右衛門が舞台を離れると、玉三郎は名実ともに女形の最高峰として歌舞伎界を牽引する存在となります。しかし、彼は決してその座に安住することなく、自らが受け継いだ名役・大役を積極的に若手へと伝授。「阿古屋」「政岡」「八重垣姫」など、かつては独占されがちだった名役も、玉三郎の指導のもとで次世代に受け継がれています。
2012年には立女形として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、紫綬褒章、文化功労者、日本芸術院会員など、数々の栄誉も手にしました。芸だけでなく、熊本県八千代座の保存や、演劇私塾「東京コンセルヴァトリー」設立など、伝統文化の継承・発展にも尽力しています。
家族観と人生観――なぜ結婚しないのか?
歌舞伎の家に生まれたわけではなく、養子として家を継いだ玉三郎は、いまだ結婚歴がなく、家庭を持つこともありません。梨園では「跡継ぎ」を重視する慣習がありますが、玉三郎は「家族とは血縁だけでなく、共に歩んできた仲間や友人も含まれる」と語り、無理に家を継がせることや結婚に執着することなく、「自然の流れに任せて生きてきた」と静かに述懐します。その生き方には、芸への献身と誠実さが色濃く表れています。
現在、そしてこれから
年齢や体力の限界を感じながらもなお、坂東玉三郎は舞台に立ち続けています。
2019年以降は地方での短期公演からは引退し、大役の多くを若手に譲りつつも、歌舞伎座などで観客の熱い期待に応えています。2020年にはNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で正親町天皇を演じ、初のテレビドラマ出演も果たしました。
「もう限界ですね」と語る一方、
「舞台に立つこと以外、何もできなかったし、好きだから続けてきた」
と、その芸道一筋の人生を振り返ります。生まれ変わってももう一度坂東玉三郎になりたいか?という問いには、「何にも生まれ変わりたくない」と潔く笑ってみせる姿もまた、彼らしい矜持といえるでしょう。
まとめ
坂東玉三郎の人生は、華やかな舞台の裏に、並外れた努力と飽くなき探究心、そして孤高の美学があります。歌舞伎という伝統の世界で、その枠を超えた創造性と自己変革を続け、後進の育成にも全力を注いできたからこそ、彼は「人間国宝」と呼ばれるにふさわしい存在なのです。
「美しさは奇跡」とまで称されるその芸と生き方。その軌跡を知ることで、きっとあなたの心にも新たな刺激と感動が生まれることでしょう。もし機会があれば、ぜひ一度、坂東玉三郎の舞台を目撃してみてください。その一瞬一瞬に込められた人生の重みと芸の深さが、きっとあなたの価値観を揺さぶるはずです。


