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2025

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    八村塁の軌跡|富山からNBAへ 日本バスケ史を変えた成長物語

    八村塁の軌跡|富山からNBAへ 日本バスケ史を変えた成長物語

    世界中のスターが集まる“バスケットボールの聖地”アメリカ。その最高峰NBAで、堂々と戦っている日本人がいる――その事実自体がすでに奇跡に近いことです。
    その中心に立つのが、富山県で育った一人の少年・八村塁。

    2019年、NBAドラフト1巡目9位。4億5000万人とも言われる競技人口の中で世界トップのリーグであるNBAにおいて、日本人で初めて1巡目に指名された出来事は、日本のスポーツ界の常識を一瞬で塗り替えました。

    なぜ八村は、世界の頂点に手を伸ばすことができたのか?
    本記事では、富山の中学生から世界最高峰のリーグへと駆け上がったその軌跡をたどりながら、“日本人離れした強さの源”に迫ります。

    富山の少年がバスケと出会うまで

    八村塁が生まれ育ったのは、富山県。彼の父はベナン出身、母は日本人という家庭で育ちました。彼がバスケットボールに本格的に取り組み始めたのは、富山市立奥田中学校に進学してからのことです。八村選手は野球少年だったそうですが、投げる球が速すぎてチームメイトが捕れずキャッチャーをすることに。その後成長痛による膝の痛みで野球から離れていました。

    バスケットボールを始めてからの成長速度はまさに“桁違い”でした。恵まれた体格と持ち前の身体能力、そして人一倍の努力で、瞬く間にチームの中核選手へと成長します。中学3年生のときには全国大会で準優勝を果たし、すでにこの頃から「日本の宝」として一目置かれる存在になっていました。

    早くから見据えていた“世界”──明成高校での進化

    中学卒業後、八村選手は宮城県の強豪・明成高校へ進学します。進路を選ぶにあたって、彼が掲げていた明確な目標があります。それは「高校卒業後、アメリカに行く」ということ。すでにこの時点でNBAを強く意識していたのです。

    高校時代の八村選手は、入学当初からレギュラーとしてチームをけん引。インサイドプレイヤーとして始まった彼のプレースタイルは、徐々にアウトサイドにも広がり、オールラウンダーとして総合力を磨いていきました。特に印象的なのが、全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会(ウィンターカップ)での3連覇への大きな貢献です。高校バスケ界での八村選手の存在は、すでに全国区となっていました。

    また、2014年のU-17世界選手権では平均22.6得点を記録し得点王に輝くなど、国際舞台でもその才能を証明。日本代表候補にも高校生として唯一名を連ねました。

    渡米、そして新たな挑戦──ゴンザガ大学での覚醒

    高校卒業後、彼は多くのバスケットボール選手が夢見るアメリカへの挑戦を現実のものにします。進学先に選んだのは、全米屈指の強豪校・ゴンザガ大学です。

    アメリカの大学スポーツは、文化も言葉も全く異なる環境。日本人選手にとっては「大学進学のための準備校」(プレップスクール)を経てようやくスタートラインに立てるのが一般的ですが、八村選手は明成高校卒業からわずか半年でゴンザガのユニフォームを身にまといました。この速さも、彼の異才ぶりを物語っています。

    大学3年生になると、その成長は一気に花開きます。全米大学男子バスケットボールの「マウイ招待」では、強豪デューク大学を破りチームを優勝に導く立役者となりました。決勝では20得点、7リバウンド、5アシスト、3ブロックと圧巻のパフォーマンスを披露し、自身も大会MVPに選ばれています。

    さらに、2019年には全米の年間最優秀スモールフォワードに贈られる「ジュリアス・アービング賞」を日本人として初めて受賞。1試合平均19.7得点、6.5リバウンド、フィールドゴール成功率59.1%、スリーポイント成功率41.7%という驚異的な成績を残しました。この受賞は「NBA入りは確実」と全米メディアが絶賛するほどのインパクトでした。

    NBAドラフト1巡目9位──日本人史上初の“快挙”はなぜ実現したのか

    2019年6月20日、八村塁選手はワシントン・ウィザーズからNBAドラフト1巡目9位で指名されました。NBAのドラフトは全世界のエリートが集う狭き門。1チーム15名、全30チーム、ドラフトで指名されるのは60名のみ。そのうち9番目という事実が、どれほどの評価であるかは想像に難くありません。

    NBAは世界4億5000万人の競技人口の頂点に君臨するリーグです。アジア全体でもNBAでプレーした経験を持つ選手はごくわずか。日本人選手でドラフト1巡目指名を受けたのは八村選手が初めてとなります。

    過去、日本人選手がNBA入りを果たした例はありましたが、いずれもドラフト外からスタートするケースでした。八村選手の“9位指名”は、まさに日本バスケットボール界の歴史を塗り替える出来事だったのです。

    NBAでの飛躍──“世界基準”で磨かれるプレー

    NBA入り後、八村選手はワシントン・ウィザーズでの3シーズン半で177試合に出場し、1試合平均13.5得点、6.1リバウンドを記録。新人ながらNBAオールルーキー・セカンドチームに選出されるなど、即戦力としての実力を証明しました。

    この活躍は、八村が“日本人でも世界で戦える”ことを証明した最初の瞬間でした。 2023年1月には名門ロサンゼルス・レイカーズへと移籍。ここで彼はさらに飛躍を遂げます。歴代屈指のスター選手が名を連ねるレイカーズで、八村選手は持ち前のミドルレンジシュートだけでなく、アウトサイドシュート(3ポイント)も大きな武器へと進化させました。特にレイカーズ移籍後は3ポイント成功率が41%超と、球団歴代トップクラスの記録を残し続けています。

    また、出場試合数も350試合を突破し、これまでにウィザーズで2303得点、レイカーズで2221得点を挙げ、1試合平均得点も安定して高い水準を維持。主力として活躍し続けている点は、まさに“世界基準”の証しと言えるでしょう。

    「八村塁現象」──日本バスケ界へのインパクト

    八村選手の快進撃は、単なる一人のアスリートの物語にとどまりません。彼の活躍に憧れてバスケットボールを始める子どもたちも増え、国内の競技人口やBリーグの注目度も大きく向上しています。バスケットボールが日本でも“憧れのプロスポーツ”として根付くことに大きく貢献していることは間違いありません。

    スポーツにおいて体格や身体能力が重要な要素であることは否定できません。しかし、八村選手のキャリアを振り返ると、才能だけでなく「世界を目指す強い意志」と「成長を止めない努力」が、偉業達成の最大の原動力だったことが見えてきます。

    まとめ

    八村塁選手は、今なお進化の途上にあります。NBAの歴史に名を刻むレジェンドたちと同じユニフォームに身を包み、名門チームで存在感を発揮し続ける姿は、日本のスポーツ界に新たな可能性を示しています。

    「自分も世界で戦える」。そう信じて努力を重ねてきた八村選手の歩みは、これからバスケットボールを志す全ての人々にとって、道しるべとなるはずです。

    今後、彼がどんな記録を打ち立て、どんな歴史を作っていくのか──その一挙手一投足から、今後も目が離せません。NBAで輝き続ける“日本の至宝”のさらなる活躍に、世界中が注目しています。

    #NBA#八村塁#バスケットボール#レイカーズ#ウィザーズ#日本人NBA選手#日本人アスリート

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