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2025

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    「文明と戦争とは、結局両立し得ないものである」――憲法9条を説いた第44代内閣総理大臣・幣原喜重郎の平和のすすめ

    「文明と戦争とは、結局両立し得ないものである」――憲法9条を説いた第44代内閣総理大臣・幣原喜重郎の平和のすすめ

    憲法9条が、どのような背景と信念から生まれたのか、ご存じでしょうか。そこには、一人の外交官の揺るぎない理念と、時代を超えて語り継がれる平和への強い願いがありました。

    「文明と戦争とは、結局両立し得ないものである」と残した第44代内閣総理大臣・幣原喜重郎の生涯をたどりながら、なぜ平和主義を貫いたのか、その言葉や行動の裏にあった苦悩と挑戦に迫ります。

    幼少期から外交官への道――「信頼で国を守る」という発想の原点

    1872年8月、幣原喜重郎は大阪府門真市に、教育熱心な家庭のもとで生まれました。兄は台湾帝国大学の創設に尽力し、妹は大阪府で初の女医となるなど、家族全体が時代の先頭を切るような気風に包まれていました。喜重郎自身も、英語教育に力を入れた大阪中学校、そして京都の第三高等中学校を経て、東京帝国大学法科大学へと進学します。

    外交官を志していたものの、学業途中に脚気を患い、一度は農商務省に就職。しかし翌年、わずか4人しか合格しない狭き門を突破し、念願の外交官試験に合格しました。仁川領事館やロンドン、アントワープ、釜山といった世界各地での勤務経験は、異文化との対話を肌で学ぶ貴重な財産となりました。

    この時期から、彼は「国際的な信頼こそが、日本の未来を切り開く鍵である」と確信するようになります。幣原がのちに語った「武力ではなく信頼で国同士が分かり合えるものだ」という信念は、こうした経験の積み重ねから生まれたものでした。

    ワシントン会議と幣原外交――「協調」は理想か現実か

    1919年、幣原は駐米大使に任命され、翌年には男爵の爵位を授けられるなど、外交官としての評価は高まり続けます。そして、1921年から始まったワシントン会議では、日本、イギリス、アメリカ、フランスが領土を相互に尊重する4カ国条約を調印。これは、軍拡競争を抑え、平和を維持するための国際的枠組み、いわゆる「ワシントン体制」の誕生でした。

    幣原は「国際協調こそが日本の進むべき道」と確信し、1924年、加藤高明内閣で外務大臣に就任してからは、軍事力ではなく対話と信頼による外交を推進します。
    特に中国に対しては「内政不干渉」を貫き、36回にも及ぶ交渉を重ねました。世界が軍事的緊張を強める中、「日本は中国と平和的な関係を築くべきだ」と主張し続けたのです。

    また、戦争は軍部の暴走だけでなくマスコミが国民を煽る事も要因であると幣原は考え

    「国際問題に素養も理解もなき民間の喝采を博せんとする外交ほど国家の前途に取って重大なる憂患はない」

    とも語っています。これは、国民感情や世論に流される外交が国益を損ねることになると主張したのです。

    幣原外交の苦悩――「軟弱外交」との批判、そして転換点

    しかし、こうした協調外交は「軟弱外交」との批判にさらされます。1930年、ロンドン海軍軍縮条約の締結では、軍部から「天皇の統帥権を侵している」と非難され、浜口雄幸首相が狙撃されるなど、政局も混乱の極みに達しました。

    さらに1931年、満州事変が勃発。幣原は国際連盟で日本軍の撤退を約束しますが、現地では陸軍が独自行動をエスカレート。幣原の協調路線は時代の流れに押し流され、ついに第二次若槻内閣とともに総辞職を余儀なくされました。

    戦後の日本へ――「憲法9条」に込めた平和への覚悟

    1945年、日本は敗戦の混乱の中にありました。多くの政治家や軍人が戦犯として追放・逮捕される中、幣原は「ワシントン体制」の立役者として、国内外からその人格が高く評価されていました。

    73歳の高齢でありながら、昭和天皇の強い要請に応じ、幣原は第44代内閣総理大臣に就任します。着任翌日、GHQのマッカーサー元帥と面会し、婦人参政権や労働組合の奨励、新憲法の制定など、戦後改革の大号令を受けました。

    その中で最大の課題となったのが、憲法改正です。GHQは、国民主権・戦争放棄・封建制度の廃止という三原則を厳しく求めました。幣原は、天皇制維持のためにも「どうしても我々は戦争放棄の平和憲法を主張していかなければならない」と決断します。

    なぜ「戦争放棄」にこだわったのでしょうか。世界は天皇制存続に強い警戒を示していました。もし日本が武力を持ち続ければ、再び「天皇のために命を捧げる皇軍」が生まれると考えたからです。
    憲法改正に対して、幣原は次のように決意しました。

    「文明と戦争とは結局両立しえないものである。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるであろう」

    幣原は、平和主義を徹底することで、天皇制を守り、日本が国際社会の一員として信頼を回復できると信じていました。こうして、戦争放棄と軍備の不保持を明記した日本国憲法第9条が提案されたのです。

    戦後日本の基礎を築く――進歩党総裁、そして衆議院議長へ

    1946年5月、幣原内閣は総辞職します。その後、日本進歩党の総裁に就任し、党人政治家として初めて本格的に政党活動へと踏み出しました。翌年には国会議員に初当選し、1949年には衆議院議長へ。心筋梗塞で急逝するその日まで、登院を続けました。

    彼の死は、当時の日本だけでなく、占領軍のマッカーサー元帥からも

    「現下の緊迫した世界情勢に際し、幣原氏の死去は必ずや大きな損失となろう」

    と惜しまれるほど、国際社会にとっても大きな痛手となりました。

    幣原喜重郎が現代にも問いかけるもの

    幣原喜重郎の人生は、「信頼による協調」を一貫して追い求めた軌跡でした。「文明と戦争とは、結局両立し得ないものである」という言葉は、単なる理想論ではなく、幣原が国際社会の現実と向き合い、幾度も苦渋の決断を下してきた末にたどり着いた結論です。

    現代日本でも、憲法9条をめぐる議論は続いています。しかし、幣原のように「武力ではなく信頼で国を守る」という視点は、グローバル化が進む今だからこそ、改めて見直す価値があるのではないでしょうか。

    幣原喜重郎の平和のすすめ――それは、私たち一人ひとりが「対話と協調」の力を信じ、未来を切り開いていくための普遍的なヒントなのです。

    #憲法9条#日本国憲法#平和主義#幣原喜重郎#昭和史#日本近代史#外交史#戦後日本#平和憲法

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