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料理は、もっと自由でいい――土井善晴が問い直した「家庭料理」のあり方
ビジョナリー編集部 2026/01/28
「今日のごはん、何を作ろう……」夕方になると、ため息が自然と漏れてしまう。レシピを検索しては材料の多さに尻込みし、SNSで流れてくる“理想的な食卓”を見て、なぜか自分がダメな気がしてくる。
もし、そんな経験があるなら——あなたは、知らないうちに料理のハードルを高くしすぎているのかもしれません。
その“重たくなりすぎた料理のプレッシャー”に、そっと手を添えてくれた人がいます。料理研究家の土井善晴です。
彼が伝えてきたのは、目新しいレシピや技巧ではありません。「料理はこうあるべきだ」と、いつの間にか私たち自身が背負ってきた思い込みを、少しずつ解きほぐしていく——そんな、肩の力を抜く提案でした。
「きちんと作らなければならない」という呪縛
日本の家庭料理は、いつの間にか“求められるもの”が多くなりすぎました。栄養バランス、品数、彩り、手作り感、時短、映え——。このような基準が、気づけばプレッシャーに変わっていたのです。
土井善晴が繰り返し語ってきたのは、「家庭料理に、完成形はない」という、ごくシンプルな事実でした。
例えば味噌汁。 だしを丁寧に引き、具材を整え、味を決める。それができる日もあれば、できない日もある。でも、鍋に水を張り、野菜を入れ、味噌を溶くだけでも——それは立派な味噌汁です。
料理は「ちゃんとしなくても成立する」。 この当たり前のようで、実は誰も言ってこなかった言葉が、多くの人の支えになってきました。
レシピよりも「考え方」を渡す料理家
土井善晴の特徴は、細かい分量や工程を強調しない点にあります。彼が伝えようとするのは、「どう作るか」よりも「どう考えるか」です。
冷蔵庫にあるものでいい。火加減は感覚でいい。味は、その日の自分が「おいしい」と思えばいい。
その根底にある考え方は、「料理は本来、特別な努力を要するものではなく、生活の中で自然に繰り返される営みだ」という視点です。
この考え方に立てば、料理は 顔を洗ったり、部屋を整えたりするのと同じ、毎日続く日常の仕事のひとつになります。無理に頑張らなくてもいい。それでも、ちゃんと食卓は回っていく。
料理を“努力”から“営み”へ。 それが、土井善晴の一貫したスタンスです。
「一汁一菜」が教えてくれたこと
彼の思想を象徴する言葉として、よく知られているのが「一汁一菜」です。ご飯と味噌汁、そしておかずが一つ。 それだけで、食事はきちんと成り立つ——そんな考え方です。
ここで大切なのは、これが節約や手抜きを勧める話ではないという点でしょう。むしろ、「それで十分だ」と自分で認めるための姿勢に近いのです。
栄養も、情報も、選択肢も。現代の食卓は、知らず知らずのうちに多くのものを抱え込んできました。 その中で、「これで足りている」と感じられる感覚を取り戻すこと。それこそが、一汁一菜が示している本質なのかもしれません。
料理を“評価”から解放する
SNS時代の料理は、常に誰かに見られる前提で作られがちです。写真に撮れるか、褒められるか、比較されないか。気づけば料理は、自分や家族のためではなく、他人からの評価のための行為になってしまう。
土井善晴は、そこに疑問を投げかけました。「家庭料理は、他人に見せるものではないのではないか?」
この一言が、どれほど多くの人を救ったかは、数字では測れません。うまくできなくていい。昨日と同じでもいい。失敗しても、それで一日が壊れるわけではない。料理を評価軸から外した瞬間、それは再び「暮らしを支える日常」に戻ります。
料理のハードルを下げると、人生の余白が増える
料理が楽になると、時間が増えます。 時間が増えると、気持ちに余裕が生まれます。その余白は、会話や休息、別の楽しみに自然と流れていく。
土井善晴の考え方が支持され続けている理由は、 単に料理が楽になるからではありません。 生き方全体が、少し楽になるからです。
完璧を目指さなくていい。 できる範囲でいい。今日はこれで十分、と言える強さを持つ。それは、料理だけでなく、仕事や子育て、人間関係にも通じる態度かもしれません。
まずは、鍋に水を張るところから
もし今日、料理が億劫に感じたら。レシピを閉じて、まず鍋に水を張ってみてください。そこから先は、気分次第でいい。野菜が一つでも入れば、それは立派な一品です。味が決まらなくても、それは経験になります。
料理は、技術ではなく、生活そのもの。 そう教えてくれた土井善晴の言葉は、忙しい現代人にとって、薬のように効いていきます。
料理のハードルを下げることは、 生活のハードルを下げること。 そしてそれは、決して後退ではなく、 自分の暮らしを取り戻すための前進なのです。


