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世界が惚れた宮崎駿──戦争の記憶から生まれた“想像力”と揺るがぬ信念
ビジョナリー編集部 2025/12/15
世界が認めた日本人クリエイター──宮崎駿。
『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞を受賞したのをはじめ、彼の作品は今もなお世界各地で上映され、世代を超えて愛され続けています。
しかしその原点には、華やかな成功とは対照的な“戦争の記憶”と“孤独な幼少期”がありました。
空襲への恐怖、病弱な母との日々、そして空や飛行機への強烈な憧れ。
こうした体験が彼の中でひとつの線を結び、やがて「人はどう生きるべきか」という普遍的なテーマへと昇華されていきました。
宮崎駿という人物の核心に迫るために、彼の人生の軌跡と創作の源泉を紐解きます。そこには、世界の人々を魅了し続ける“物語の力”が確かに息づいています。
幼少期―戦争と不安の中で芽生えた想像力
宮崎駿は戦時下の東京で生まれました。父親は航空機部品工場の役員を務めており、当時としては比較的恵まれた生活をしていたといいます。しかし、戦争が激しさを増す中で彼の一家は宇都宮へ疎開。4歳のときには空襲に遭遇し、家族で混乱の中を逃げ惑った経験が彼の心に刻まれました。
空襲から逃げる最中、家族でいっぱいのトラックに乗り込むと、子供を抱えた見知らぬ親子が「助けてください」とすがりついてきました。しかし、スペースがなく彼らを乗せることはできず、トラックは走り去るしかありませんでした。この出来事は、幼い宮崎さんの心に深い傷を残しました。「自分だけが助かった」という罪悪感と、社会の理不尽さ。この記憶は、後年まで彼の創作の源になることになります。
母親は長く病床に伏しており、普通の母親のように甘えることもできず、いつか失ってしまうのではないかという不安とともに過ごしました。そんな日々を支えたのが、物語や漫画の世界でした。6歳で出会った手塚治虫さんの「新宝島」に心を奪われ、空想や絵を描くことに没頭するようになったのです。
宮崎駿は、児童文学や歴史書、そして空や飛行機への強い憧れに影響を受けて育ちました。父親の仕事柄、飛行機部品や戦闘機の話題が身近にあり、そのメカニックへの興味は後の「ラピュタ」や「紅の豚」にも色濃く反映されています。しかし、“戦争そのもの”には否定的な立場を貫きます。現実の戦争の愚かさや悲惨さを強く認識しつつ、兵器や飛行機の美しさ、空への自由な憧れが、独自の世界観を形成したのです。
アニメーションとの出会い
宮崎駿は、自分の気持ちをうまく表現できず、社会への不信感や孤独に悩みながら漫画を描いていました。その作風は、当初は暗く内省的なものだったといいます。転機となったのは、高校時代に東映動画の長編アニメ「白蛇伝」を観たことでした。これは、日本初の本格的カラー長編アニメ映画で、宮崎に「アニメは1本の映画として成立する」と初めて認識させた作品でした。従来漫画では表現し得なかった“映画的なドラマ”がアニメでも作れると気づいた瞬間でした。当時のアニメよりも格段に美しく、動きも滑らかで、キャラクターの感情表現が丁寧に描かれており、衝撃を受けたと言います。
この作品に触れ、宮崎は「自分は本当は、皮肉や不満ではなく、“純粋に面白いもの”を作りたかったのだ」と気づいたのです。これが、アニメの道に進む大きなきっかけとなります。
しかし、大学進学では父親の「絵では食べていけない」という意見により、学習院大学の政治経済学部へ進学。それでも、創作への情熱は衰えず、サークル活動で人形劇や漫画の長編制作に打ち込みました。大学時代、悩みながらも自分の道を模索し続け、その過程で自分の本心と向き合うことができるようになったのです。
アニメーターとしてのスタート
大学卒業後、宮崎駿は東映動画に入社し、本格的にアニメーションの世界に飛び込みました。当初は、白蛇伝のような新鮮さを感じられず、業界の量産主義に違和感を覚えたり、漫画への未練を抱えたりと葛藤の時期が続きました。
そんな折、運命的に出会ったのが旧ソ連制作の「雪の女王」でした。この作品を通じて、「アニメーションは真摯に愛情をこめて作れば、どんなジャンルにも負けない」と確信し、アニメーターとして生きていく決意を新たにします。「自分もいつか、こんな風に人の心を打つ作品を生み出したい」と心に誓ったのです。
その後、同僚の高畑勲らとともにスタジオを移り、「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」といった名作に携わりながら、着実にキャリアを積んでいきました。そして、1978年、NHKテレビアニメ「未来少年コナン」で監督デビューを果たします。視聴率こそ振るいませんでしたが、のちのクリエイターたちに大きな影響を与える作品となりました。
スタジオジブリ誕生
宮崎駿の名を世界へと押し上げたのは、1985年のスタジオジブリ設立でした。それ以前の「ルパン三世 カリオストロの城」や「風の谷のナウシカ」で培った経験と失敗を糧に、「商業主義に流されず、自分たちの信じるものを自由に創りたい」という強い願いから、仲間とともに新たなアニメスタジオを立ち上げます。
ジブリでの最初の作品「天空の城ラピュタ」では、少年少女の冒険と自立、空への憧れ、そして人との絆が美しく描かれました。「となりのトトロ」では、幼少期を過ごした埼玉県所沢の自然や家族の記憶をベースに、誰もが懐かしさを感じるノスタルジーと家族の物語を生み出します。公開当初の興行成績は振るいませんでしたが、時を経て国民的な人気作となり、トトロのキャラクターは世界的なアイコンになりました。
「魔女の宅急便」では、親元を離れて自立する少女キキの成長を描き、若者を中心に深い共感を呼びました。「もののけ姫」では、人間と自然、文明と原始との共存という近代社会への問いという壮大なテーマに挑み、従来の子ども向けアニメの枠を大きく超える作品となりました。社会問題や環境、平和への強いメッセージが込められており、国内外で高い評価を受けました。
世界へのインパクト
2001年の「千と千尋の神隠し」は、宮崎駿の名を世界に知らしめた金字塔となりました。日本国内で興行収入歴代1位を記録し、アカデミー賞長編アニメーション賞を受賞。日本アニメ初となるこの快挙は、世界中の映画ファンやクリエイターに衝撃を与えました。
見知らぬ世界に迷い込んだ少女・千尋が困難を乗り越えて成長していく姿を描き、幻想的な世界観と美しい映像だけでなく、「労働観について」「大切なものは何か」「本当に強く生きるとはどういうことか」といった問いかけが、国や文化を超えて多くの人々の共感を呼んだのです。
以降も、「ハウルの動く城」や「崖の上のポニョ」、「風立ちぬ」、「君たちはどう生きるか」など、手描きアニメーションの魅力を最大限に生かした作品を発表し続けます。宮崎駿は、流行に流されず“自分の信念に基づく表現”を貫き通してきました。
創作を支える「信念」
宮崎駿が長く第一線で活躍し続けている理由。それは、「人に運命を委ねない」という強い信念にあります。彼自身、何度も企画を否定され、作品がビジネスとして成功しない時期も経験しています。しかし、「誰かにチャンスを与えられなかったからといって、人生を恨みに思うのはつまらない。大切なのは、自分の中で情熱や夢を無傷のまましまっておき、次の機会にまた挑戦することだ」と語っています。
この“くじけない心”と“挑戦し続ける姿勢”こそが、宮崎駿の作品から溢れるエネルギーです。手描きアニメーションへのこだわりも、効率や合理性より「作る人の魂や温かみ」を優先させる哲学に基づいています。その揺るぎない姿勢は、国内外の若手アニメーターや映画監督たちにも多大な影響を与え、ピクサーのジョン・ラセター監督やエヴァンゲリオンの庵野秀明監督など、多くのクリエイターが宮崎駿の作品から学び、インスピレーションを得ています。
まとめ
宮崎駿のこれまでの人生を振り返ると、戦争や不安といった逆境が、むしろ豊かな想像力と創作の源泉になっていたことがわかります。作品の中で描かれるのは、ただの夢や幻想ではありません。「生きることの意味」「困難を乗り越えて成長すること」「誰かを思いやる強さ」――こうした普遍的なテーマが、時代や国境を超えて人々の心を動かし続けています。
そして何より、宮崎駿は「最後まで自分の心に従い、信じた道を歩み続ける」ことの大切さを、私たちに教えてくれます。人生には思い通りにならないことも、苦しい選択もつきものですが、「自分の運命を人に委ねない」「情熱を失わず、何度でも挑戦し続ける」――その姿勢こそが、世界で活躍する日本人・宮崎駿の真髄なのです。
さらに、宮崎駿が築いた物語と思想は、これからの世代のクリエイターたちに受け継がれ、未来のアニメーションや映画表現にも確かな影響を与え続けていくでしょう。


