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2025

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    いかに自身と向き合うか──夏目漱石が残した物語

    いかに自身と向き合うか──夏目漱石が残した物語

    多くの名作を世に送り出した国民的作家、夏目漱石。彼の人生は、決して「順風満帆」とは言えませんでした。むしろ、混乱や不安、悩みや挫折にあふれていました。その不安定な歩みこそが、生きづらさを感じる今の時代に、大事なヒントを与えてくれます。

    名家の生まれから漂流した幼年期

    1867年、江戸の名家に漱石は生まれました。しかし、彼の誕生は家族にとってあまり喜ばしいものではありませんでした。家はすでに落ちぶれ始めていて、高齢での出産は恥ずかしいとされていた時代だったからです。生まれてからわずか4か月で、漱石は近所の古道具屋に預けられ、その後もいくつかの家を転々としました。

    9歳でようやく生まれた家に戻ることができましたが、そこでも父と養父の対立が続き、家庭の温かさを感じることはほとんどありませんでした。親からの深い信頼や愛情を知らずに育った漱石は、心に大きな傷を抱えることになりました。

    天才の目覚め

    漱石の学生時代は、決して明るいものではありませんでした。中学校を転々とし、漢学を学ぼうとしては挫折し、私塾もすぐにやめてしまうなど、道に迷うことがよくありました。しかし、英語という新しい学問に出会ったことで、漱石の目は輝き始めました。

    17歳で大学の予備校(後の第一高等中学校)に入学し、そこで、有名な俳人となる正岡子規と出会います。2人はお互いの文章を批評し合い、千葉の房総半島を旅しては詩を作りました。漱石は自分の言葉で世界を表現することの楽しさに目覚めていきます。学業にも励み、ほとんどの科目で主席をとっていました。

    英文学の精鋭──ロンドンでの絶望

    漱石は東京帝国大学(今の東京大学)の英文科に進学します。教授から「方丈記」を英訳するよう頼まれるほど優秀でした。卒業後は英語の先生になり、愛媛県松山の中学校に行きます。この時の経験が、後の名作「坊ちゃん」につながっていきます。

    漱石の人生が大きく変わったのは33歳のときです。文部省から英文学の研究のために、ロンドンに留学するよう言われました。ロンドンは当時、鉄道も発達し、世界の中心と言われていました。しかし、漱石がロンドンで見たのは、激しい貧富の差、工場の煙でくもった空、そして自分の無力さでした。

    泊まる家を転々とし、友人もできず、お金にも困る毎日。漱石はしだいに心も体も弱っていきました。イギリス留学の成果を書いた文章には

    「ロンドンに住み暮らしたる2年は最も不愉快な年」

    とまで書いています。異国の文化、孤独、努力しても結果が見えない苦しさ──グローバル化が進んでいる現代でも同じように悩む人も多いかもしれません。

    帰国と転機

    日本に戻った漱石は、小泉八雲の後任として東京帝国大学で英文学の先生になります。しかし、理屈っぽくて難しい授業は学生に人気がなく、小泉八雲を残してほしいという運動まで起こりました。その後、漱石は神経をすり減らし、病気になり、先生をやめることになりました。エリートコースから外れることになったのです。しかし、ここから漱石の本当の挑戦が始まりました。

    かつての友人・正岡子規の弟子である高浜虚子から「小説を書いてみないか」とすすめられた漱石は、38歳で「吾輩は猫である」を書きます。漱石のユーモアや人間観察の鋭さが光るこの作品は、すぐにベストセラーになりました。

    名誉より信念──博士号の辞退

    「坊ちゃん」や「草枕」などヒット作を次々と出した漱石のもとには、若い作家が毎日のように集まりました。あまりにも人気で漱石が執筆できなくなるほどだったため、面会日は週に一度、木曜日の午後だけと決められました。「木曜会」と呼ばれるその集まりには、芥川龍之介や物理学者の寺田寅彦なども顔をそろえていました。

    作家としての名声が高まる中、漱石は40歳で朝日新聞社に入り、新聞の連載という新しい場で「虞美人草」「三四郎」「それから」などの名作を発表していきます。しかし、体調は悪く、胃の病気や神経の病気にも悩まされ続けました。

    43歳のときには、執筆中に倒れ、「修善寺の大患」と呼ばれるほどの大きな病気で生死をさまよいました。療養中、博士号授与の知らせが届きますが、漱石は政府の権威主義的なやり方に納得できず、これを断ります。世の中の権威や形式に流されず、自分の信念で道を選ぶ漱石の姿は、多くの仲間に感動を与え、自分らしい生き方の手本となりました。

    色褪せない物語

    漱石は最後まで、人の内面や心理について深く考え続けました。代表作「こころ」では、友情や裏切り、孤独や救いのなさを書きながら、それでも生きていく覚悟を物語に込めました。

    胃の病気の再発や親しい人たちの死、時代の大きな変化など、次々と押し寄せる困難を、漱石は最後まで作品に昇華していきました。1916年、49歳で亡くなり、作家として活動したのは約10年ほどでしたが、漱石が残した物語と生き方は、100年以上たった今も色褪せることはありません。

    物語は続いていく

    漱石の座右の銘に「則天去私」という言葉があります。これは、自分本位な欲やこだわりを捨てて、普遍的な真理を求める姿勢を表しています。この考え方は、漱石の作品や生き方の土台となり、困難を乗り越えて進む原動力にもなりました。

    厳しい状況に陥りながらも、自分にできることをやり続け這い上がってきた漱石の物語には、現代の私たちが自分と向き合うためのヒントが詰まっています。夏目漱石の生き様を心に刻みながら、自分自身が主人公となって人生という物語を作っていきたいものです。

    #夏目漱石#漱石#日本文学#文豪#作家の生き方#歴史から学ぶ#教育

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