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10/15(水)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/15
「サラーフ・アッディーン」は、日本ではあまり馴染みのない名前かもしれません。しかし、アラブの世界では“ムハンマドに次ぐ英雄”と称され、さらに十字軍と戦った欧州キリスト教世界でも、その名は尊敬とともに語り継がれています。なぜ敵対したはずの人々からも愛され続けるのでしょうか。その理由を、彼の生涯を追いながらひも解いてみたいと思います。
サラーフ・アッディーン(本名ユースフ)は1138年ごろ、現在のイラク北部ティクリートでクルド人の長官アイユーブの子として誕生しました。しかし、彼の一族は叔父が殺人事件を起こしたことで一夜にして祖国を追われることになります。絶体絶命の危機に手を差し伸べたのが、後のザンギー朝創始者であるザンギーでした。ザンギーはかつて父アイユーブに命を救われた恩があり、その恩返しとして一族を匿ったのです。
この幼い頃に体験した“恩義と寛容”の精神が、後の彼の行動原理に深く刻み込まれたのかもしれません。
サラーフ・アッディーンは、幼少期から武芸のみならず学問にも熱心でした。『コーラン』の暗記に励む同級生たちの中で、彼は「暗記よりも内容を理解することが大切だ」と考えていた、と伝えられています。また、馬上で行うポロの腕前も高く、文武両道を地で行く少年だったのです。この頃から、「形だけでなく本質を見抜く」という資質が現れていました。
時は動乱の12世紀中盤。サラーフ・アッディーンはザンギーの息子ヌールッディーンのもとで頭角を現します。エジプトで激しい内紛が起こると、叔父シールクーフとともに遠征に参加。やがて叔父が急死すると、軍の首脳たちは「経験も浅く、若くて一番弱そうだから操りやすいだろう」と、サラーフ・アッディーンを宰相に推薦します。
ところが、その“見かけ倒し”の青年は、まもなく誰よりも実力を発揮し始めます。宰相に就任すると、無駄な贅沢をやめ、エジプトの政治を立て直し、徹底した改革を断行。1171年にはカイロでファーティマ朝を終焉させ、自身が開いたアイユーブ朝を正式にスタートさせます。さらにシリアのダマスクスも無血で併合し、エジプトとシリアを束ねる大国家の指導者となりました。
サラーフ・アッディーン(アラビア語で「宗教の救い」)の名にふさわしく、彼はスンナ派イスラムの信仰を重んじつつも、異なる宗派や民族をまとめ上げる手腕を発揮しました。
内政面では、寄付や施しに私財を惜しまず、贅沢を徹底的に排除。晩年には葬儀代さえ残らなかったといいます。彼の言葉に「王の手は孔だらけでなければならぬ」とありますが、この精神は当時の詩人たちにも引用され、理想の君主像となっていきます。
1187年、サラーフ・アッディーンはついにイスラム世界の悲願、エルサレム奪還を果たします。ここで彼の名声を決定づけたのは、ただの軍事的勝利ではありません。かつて十字軍がエルサレムを占領した際は、住民が虐殺される惨事が起こりました。しかし、サラーフ・アッディーンは異教徒を無差別に殺すことなく、捕虜は身代金で解放、支払えない者には自ら私財を投じて保釈金を肩代わりしました。孤児や未亡人にも援助の手を差し伸べたのです。
「ここはあなたがたキリスト教徒にとっても聖地だ。巡礼に来る者には決して危害を加えない」
敵の信仰心さえも尊重する姿勢は、当時としては異例中の異例でした。
寛容さばかりが強調されがちですが、サラーフ・アッディーンは決して“甘い”だけの人物ではありませんでした。休戦協定を破りたびたび隊商を襲ったルノー・ド・シャティヨンに対しては、激しい怒りを隠しませんでした。ハッティンの戦いでルノーを捕らえた際、「信義を守らぬ者に慈悲は不要」として彼を処刑しています。
また、弟アル=アーディルが自分に断りなく捕虜を解放した際には、しっかりと罰を与えています。つまり、信頼と誠実さを重んじる一方、裏切りや不正には厳しく対処したのです。
第三回十字軍の際、サラーフ・アッディーンはイギリス王リチャード1世と幾度も戦いました。戦いの最中、リチャードが病床に伏すと、彼は見舞いの品を贈っています。敵将に対してさえ思いやりを見せたこの行動も、ヨーロッパ側に強い印象を残しました。
1192年、サラーフ・アッディーンとリチャード1世は膠着した戦線の末に講和を結びます。「われわれは争いを終えよう。キリスト教徒が聖地を巡礼することも妨げぬ」とサラーフ・アッディーンは約束し、互いの信仰を認め合う道を選びました。この“約束”が後のアラブ世界を大きく救うことになります。
サラーフ・アッディーンは1193年、ダマスクスにて病に倒れました。死の間際まで『コーラン』の章句を読み続け、遺した財産はほとんどなかったといいます。その後、アイユーブ朝は彼の息子たちに分割され、やがてマムルーク朝に取って代わられますが、彼の名声は消えることがありませんでした。
詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデや、イタリアの文豪ダンテまでもが彼の寛大な精神を称賛し、ヨーロッパ文学に「高貴な異教徒」というイメージをもたらしました。シリアのカラット・サラーフ・アッディーン城は、世界遺産として彼の存在を静かに伝えています。
サラーフ・アッディーンの生き方は、今なお多くの人々にインスピレーションを与え続けています。クルド人にとっては民族の誇りであり、イスラム世界では理想の指導者、ヨーロッパでは“寛容と騎士道精神を持った異教徒”の象徴です。
「王の手は孔だらけでなければならぬ」という言葉の通り、惜しみなく与え、争いの中でも敵を尊重する姿勢は、現代社会にも通じる普遍的な価値観と言えるでしょう。
サラーフ・アッディーンの生涯は、「許すこと」「信念を持つこと」「本質を見抜くこと」の大切さを私たちに教えてくれます。困難な状況でも、他者を思いやり、相手の信念や背景を理解しようと努める。その姿勢こそが、時代や国境を越えて多くの人に愛される理由なのです。
寛容と戦略――この二つを両立させた英雄の物語は、今なお色あせることなく、私たちの心に問いかけ続けています。