
長岡の藩士・河井継之助の生涯に学ぶ――理想を貫い...
10/15(水)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/15
「福沢諭吉の師匠」としても知られる緒方洪庵。彼がいなければ、日本の医学は近代化の波に乗り遅れていたかもしれない――そんな事実をご存知でしょうか。
天然痘やコレラといった恐ろしい感染症が猛威をふるう時代、洪庵はどのようにして人々の命と未来を守ったのでしょうか。その生涯をご紹介します。
1810年、現在の岡山県西部にある足守藩の下級武士の家に、緒方洪庵は生まれました。武士の家に生まれたものの、幼いころから体が弱く、武芸には向いていませんでした。しかし、父は知識人でもあり、家族の教育には熱心でした。洪庵も、幼少の頃から「自分が家族や社会の役に立つには何ができるのか」と思い悩んでいたといいます。
「兄上さえいてくだされば、我が家の将来は安泰だ。それに引き換え、私は何ができるだろう。このまま兄上の部屋住み(居候)として安穏と生涯を送るなど、馬鹿げている。私も何かで、世のため民のために尽くしたい」
そんな想いから、洪庵は「武士の務めは民を守ること。病から人を救う医の道こそ、自分が歩むべき道だ」と決意します。16歳で元服した翌年には、父に手紙で自分の意思を伝えました。
洪庵が選んだのは、当時としては最先端の「蘭学」でした。オランダ語を使い西洋医学を学ぶこの分野は、限られた知識人しか手を出せないものでしたが、「西洋の医学は従来の漢方よりもはるかに進んでいる」と確信していたのです。1826年、洪庵は大阪の蘭方医・中天游の塾に入門します。
師・中天游の幅広い蔵書と、学問の奥深さに圧倒されながらも、洪庵は「これを全て読んで、我が糧としよう」と心に誓い、オランダ語と医学書を猛勉強。三年も経つころには、塾の蔵書をすべて読み終え、師から「君が学ぶべきものは、ここにはもうない。江戸へ行きたまえ」と背中を押されるほどになりました。
江戸ではさらに修業を積み、貧しいながらも学問に打ち込む日々。やがて長崎へと赴き、オランダ人医師や最新の医学にも触れます。ここでの経験が、後の洪庵の視野を大きく広げることとなりました。
1838年、大阪に戻った洪庵は、ついに医師として開業します。同時に、自宅の2階を利用して蘭学塾「適塾(正式名称:適々斎塾)」を開設。「富や名声を求めず、貧富や身分によって患者を差別しない」という医師としての信念を掲げ、診療と教育に全力を注ぎました。
適塾の特徴は、出身や身分にとらわれず、実力本位であったこと。オランダ語の原書を会読し、塾生同士が競い合って知識を磨きました。この自由で厳しい学風のもとからは、福沢諭吉(慶應義塾創設者)、大村益次郎(日本陸軍の父)、佐野常民(日本赤十字社創設者)など、明治維新を支えた多くの人材が巣立っています。
洪庵は教育においても「事に臨んで賤丈夫となるなかれ」と門弟に語り、困難に直面しても志を見失わないようにと励ましました。
当時、日本では天然痘が猛威を振るっていました。感染力が強く、致死率も高いこの病に対し、洪庵は「ジェンナー牛痘法(ワクチン)」の導入に強い情熱を燃やします。実は洪庵自身も8歳のときに天然痘にかかり、一命をとりとめた経験がありました。
「あんな苦しい闘病と、死におびえる日々を、これ以上、子供たちに味わわせたくない」
という強い想いが、彼を突き動かしていたのです。
1849年、洪庵は大阪に「除痘館」を設立し、無料で種痘を施しました。しかし、当初は「牛の膿を体に植えつけると牛になる」といった根拠のないデマが広まり、住民の不安は大きなものでした。それでも洪庵は「さようなことは、万にひとつもございませぬ。根も葉もない迷信にございます」と静かに、しかし毅然と説得を続けました。
故郷・足守藩でも除痘館の設立を藩主・木下利恭に提案した際、まず藩主の子どもに種痘を施すことで、領民たちの信頼を得ることに成功。「これで、故郷に御恩返しができたな」と、洪庵は安堵の表情を浮かべました。こうして足守藩内の子どもたち約1,500人が天然痘から救われ、その成功は全国に広がっていきます。
1858年、コレラが日本中で流行したときも、洪庵は迅速に動きます。ヨーロッパの最新医学書を短期間で翻訳し、「虎狼痢治順(ころうりちじゅん)」を出版。効果的な治療法を全国の医師に無償で提供しました。自らも現場で患者を診察し、「医者は人を助けるためにある」という信念のもと、感染拡大の防止と治療に尽力しました。
この公衆衛生への取り組みは、単なる医療行為にとどまらず、現代の予防医学や医療倫理の先駆けとなるものです。
緒方洪庵が特に重んじたのが「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」という医師の心得です。
「医の世に生活するは人の為のみ、おのれが為にあらず」
――この言葉どおり、金銭や地位のためではなく、ひたすら人の命を救うことに徹する姿勢を、門弟や後進に伝えました。
洪庵の温厚な人柄は門弟たちからも深く敬愛されましたが、教育や診療においては決して妥協せず、厳しさも併せ持っていました。「先生が微笑んでいるときのほうが怖かった」と語る門下生もいたほどです。
1862年、医師・教育者として名声を高めていた洪庵のもとに、幕府から「奥医師」として江戸に出仕するよう命が下ります。将軍家の専属医であり、さらには「西洋医学所頭取」という重職も与えられました。洪庵は「今更江戸へなぞ……」と迷いながらも、「求められているからには断り切れない」と、責務を受け入れます。
しかし、江戸での厳格な武家社会に馴染めず、ストレスと過労に見舞われました。わずか10ヶ月後の1863年、洪庵は吐血により54歳の生涯を閉じます。遺言こそ残しませんでしたが、「道のため、人のため」という言葉が、彼の手紙や行動に何度も刻まれていました。
洪庵が創設した適塾は、やがて大阪大学医学部へとつながり、その「適塾精神」は今も息づいています。彼の門弟たちが明治維新後の日本医学や教育、軍事、福祉の礎を築いたことは言うまでもありません。
また、洪庵が普及させた種痘は、日本の予防医学の出発点となり、現代のワクチン政策にも直結しています。「医の世に生活するは人の為のみ」という倫理観は、多くの医療現場で今も掲げられています。
緒方洪庵は、「世のため民のため」と信じて行動することで、数え切れない命を救いました。
困難に直面したときこそ、「人のために尽くす」という洪庵の生き方に学ぶべきものがあるのではないでしょうか。
「医の道は、人の命を救うためにある」
この言葉が、未来の日本を担うすべての人に響き続けることを願ってやみません。