
大局さえ見失わなければ、大いに妥協して良い──第...
10/14(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/14
「辛抱、辛抱、永久辛抱」。この言葉ほど、竹下登という政治家の人生を象徴するものはありません。昭和から平成へと日本が大きく転換した時代、彼は常に逆境の中で、静かに、しかし確実に力を蓄えてきました。人生の壁にぶつかったとき、どのように乗り越えていくか。そのヒントが竹下登の生き様に隠されています。
竹下登は1924年、島根県雲南市(当時掛合村)の造り酒屋「竹下本店」の長男として生まれました。竹下家は江戸時代から続く庄屋であり、地元の名望家でした。そんな家に育ち、中学生の頃から「いつか政治家になる」と心に決めていました。
戦時中には特別操縦見習士官として陸軍に志願し、終戦直前には教官として訓練に従事しました。戦後、早稲田大学に進学しましたが、生活は決して楽ではありませんでした。アパート暮らしをしながら、郷里の代議士を訪ねたり国会を傍聴したりと、地道に政治の現場を学びました。
大学卒業後、地元で英語の代用教員を務めつつ、農地委員に立候補し当選。地主の家柄ながら、戦後の農地解放にも積極的に取り組みました。
1958年、竹下は34歳で衆議院選挙に初出馬し、トップ当選を果たします。しかし、選挙違反による24名の逮捕者が出て、支援や裁判対策など多くの苦労を強いられました。この経験から、金銭管理の徹底とリスクマネジメントの重要性を深く学びます。以降、事務所の資金管理は信頼できる秘書に一任し、自身は表に出ずに慎重な行動をとるようになりました。
「石橋どころか二重橋まで叩いて渡る」とまで言われる慎重さと、どんな屈辱にも耐える忍耐力。これらは、若くして味わった失敗と苦労が生んだものでした。
自民党内では、佐藤栄作、田中角栄という巨大な存在のもとでキャリアを重ねていきます。佐藤内閣では官房副長官、官房長官を歴任。ニューリーダーとして注目される一方、田中派の中で台頭するものの田中角栄からは抑え込まれ続けました。しかし、彼は決して表立って反発せず、「汗は自分でかきましょう。手柄は人に渡しましょう」というスタンスで人望を築いていきます。
この姿勢は、権力闘争が渦巻く政界において、敵を作らず味方を増やす秘訣でもありました。細やかな気配り、目配り、そして必要な時には「カネ配り」も厭いませんでした。野党との折衝や、若手の登用にも余念がなく、「人間関係の達人」とも呼ばれました。
1971年、47歳で第三次佐藤内閣の官房長官に就任し、歴代最年少記録を打ち立てます。その後、建設大臣や大蔵大臣などの要職を歴任。1985年には、歴史的な「プラザ合意」に日本代表として参加し、円高・バブル景気の引き金を引きました。
1985年、長年仕えた田中角栄に対し、ついに反旗を翻し「創政会」を結成します。田中派は分裂し、竹下率いる「経世会」が党内最大派閥となります。派閥の領袖として、橋本龍太郎や小渕恵三、小沢一郎など、後の日本政治を動かす人材を育てました。
1987年、党内最大派閥の力と人脈を武器に、第74代内閣総理大臣に就任します。竹下内閣の特徴は、各省庁の判断を尊重するボトムアップ型の政権運営でした。各派閥の有力者を要所に配し、盤石な体制を築きました。
総理として最も注力したのが、消費税導入です。日本初の付加価値税であり、世論や野党の強い反発がありました。竹下は1988年、軽井沢で「私の一身を燃え尽くさねばならない」と語り、導入への強い決意を示しました。幹部人事も、消費税の責任者や税制のベテランを要所に配置し、徹底した根回しと調整で法案成立にこぎ着けました。
もうひとつの大きな政策が「ふるさと創生」です。全国の市町村に一律1億円を交付し、地域自らがアイデアを出して活性化を図るものでした。その背景には、
「日本人として、しっかりとした生活と活動の本拠を持つ世の中を築き上げる」
という竹下自身の信念がありました。
しかし、時代は激しく動きます。1988年、リクルート事件が発覚し、政権支持率は急落。
「権力のトップたる者、7割批判されて当たり前。3割の人に評価されてよしとしないといけない」
という竹下の覚悟も揺らぐほどの逆風が吹き荒れました。それでも彼は「怒った姿を見たことがない」と周囲の関係者が口をそろえるほど、感情を表には出しませんでした。
退陣を決断した夜も淡々としており、「表情の違いでわずかに感じる程度」「唇を少しかんで話すくらい」だったと、側近は振り返ります。責任を取り、潔く政権の座を降りる姿に、竹下の「自分を殺して耐える」強い心がにじみ出ていました。
竹下登の人生は、まさに「辛抱、辛抱、永久辛抱」そのものでした。どんな逆境にも耐え、決して声を荒らげず、敵を作らず、着実に人脈を築いていく。自分が汗をかき、手柄は人に渡し、時には自分を犠牲にしてでも理想を追求する。その生き様に、「努力しても報われないこともあるが、手柄は人に渡しましょうと思っていれば、人を恨む気持ちもおさまる」という哲学が貫かれています。
竹下の言葉や行動は、現代を生きる私たちにも多くのヒントを与えてくれます。たとえば、組織の中で成果を他人に譲ることを恐れず、自らの努力を惜しまない姿勢。人間関係を大切にし、どんな状況でも感情をコントロールし、冷静に判断すること。これらは、どんな分野でも求められる「強い心」の本質です。
あなたが次に困難に直面したとき、竹下登の「辛抱、辛抱、永久辛抱」という言葉を思い出してください。きっと、一歩先へと進む勇気と知恵が湧いてくるはずです。