
太平洋の橋となる──新渡戸稲造から学ぶ武士道の心
9/30(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/30
世界中の人の命を救い、今でもその功績が讃えられている野口英世。その人生を振り返ると、現代を生きる私たちに勇気を与えてくれる、力強い話が見えてきます。
1876年の秋の終わり、野口英世は清作という名前で、福島県の貧しい農家に生まれました。彼の人生は、幼い頃の痛ましい出来事から始まります。まだ歩き始めたばかりの清作は、囲炉裏に落ちてしまい、左手に大やけどを負いました。小さな指は動かなくなり、自由を失ってしまいました。家は貧しく、十分な治療も受けられず、農家を継ぐことも難しくなりました。母のシカは、悔しさと愛情で息子を見守るしかありませんでした。
しかし、この辛い経験こそが英世の力になりました。母は自らの身を削るように働き、少しでも良い学びの環境を用意しようとしました。英世も期待に全力で応え、新しい教科書が買えなくても、古い本を何度も読み返し、成績はいつも一番でした。母のため、人のために生きるという静かな決意が積み重なっていったのです。
卒業が近づいたころ、一人の先生との出会いが、彼の人生を大きく変えます。小林栄先生──この先生がいなければ、野口英世の名前は歴史に残らなかったかもしれません。小林先生は英世の才能を見出し、高等小学校への進学を後押ししました。英世が学び続けられたのは、小林先生が自分のお金を使ってまで応援し、周りの友人も支えてくれたからです。
高等小学校のとき、友人が協力してお金を集め、英世は会津若松の病院で左手の手術を受けることができました。手は完全には元に戻りませんでしたが、物をつかむことができるようになり、この経験が医学への興味を強くしました。
「自分のように困っている人を助けたい」
この思いが心に生まれたのです。
会陽医院で住み込みの書生として過ごした3年間、英世は寝る間を惜しんで専門書を読みました。「ナポレオンは1日3時間しか眠らなかった」と言い、英世も同じように3時間しか眠らなかったそうです。
19歳になり、医師の免許を取るため、東京へ行くことを決断します。家の柱に
「志を得ざれば再び此地を踏まず(目標を達成しなければ、二度とこの地には戻らない)」
と書き、母の涙を背に東京へ出発しました。
東京では、血脇守之助のもとで学び、数年かかる医術の試験を、たった1年で合格しました。20歳で医者になりましたが、現場で動く臨床医にはなりませんでした。左手が不自由なため、最前線で患者を助けるのは難しいと考えたからです。そこで、病気の原因を調べる研究者の道を選びました。
研究者になった英世は、北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所(今の東京大学医科学研究所)で働き、23歳で単身アメリカに渡ります。英世の研究は高く評価され、ロックフェラー研究所に迎えられます。34歳の時には、梅毒の病原体を発見し、世界中で評価されノーベル賞の候補になるほどの成果をあげました。
英世の人生の後半は、当時世界で多くの人を苦しめていた「黄熱病」との戦いに捧げられました。1918年、南米エクアドルでわずか9日で「レプトスピラ」という病原体を発見し、ワクチンや血清の開発にも英世は成功しました。しかし、その後アフリカで新しいタイプの黄熱病が広がります。今までの常識では説明できないことが起こり、英世は自分で確かめるため現地に行くことを決めました。
周囲は反対しましたが、英世は気持ちを変えませんでした。
「すべての疑問を自分の目で確かめたい」
アフリカ・ガーナで英世は研究に打ち込みましたが、運命は残酷でした。研究の途中で自分も黄熱病にかかってしまい、1928年、51歳でその生涯を終えました。
黄熱病の原因は、当時の顕微鏡では見えないウイルスによるもので、後に電子顕微鏡が発明されてから初めて分かったことでした。
野口英世の人生は、決して順調なものではありませんでした。幼いころの障害、貧しさ、失敗や批判、誤解など、多くの困難がありながら、彼は決して諦めませんでした。
今を生きる私たちに、英世が伝えてくれているものは何でしょうか。
それは、どんな逆境も成長のきっかけに変える強い気持ちです。左手の障害や貧しさ、周囲の批判も、すべて自分の力に変えてきました。そして、支えてくれる人たちへの「感謝」と「恩返し」の気持ちです。先生や仲間、母への深い思いが、彼の人生を何度も助けました。
野口英世の人生から学ぶべきことは、「感謝と恩返しの気持ちを原動力にして、失敗を恐れずに挑戦し続ける姿勢」です。英世の研究によって救われた命が多くありました。諦めずに行動し続けることで道は開けるのです。