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ローザ・パークス──ひとりの勇気がアメリカを変えた日
ビジョナリー編集部 2025/12/09
「たった一人の行動が、時代を変えることがある」
そう聞いて、誰を思い浮かべるでしょうか。
その象徴の一人こそ、アメリカ公民権運動の原点となった女性、ローザ・パークスです。
彼女がとった“静かな抵抗”は、なぜ歴史を揺るがすほどの力を持ったのでしょうか。
この記事では、ローザの半生をたどりながら、その選択に込められた勇気の意味を紐解きます。
幼年期に刻まれた「不条理への疑問」
ローザ・パークスは1913年、アラバマ州タスキーギで生まれました。父は大工、母は教師という家庭に育った彼女ですが、当時の南部アメリカは「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種隔離政策の真っただ中。幼いローザも、学校や公共施設で白人と黒人が厳格に分けられている現実に直面しました。
例えば、水飲み場には「ホワイト」「カラード」と書かれた標識がありました。少女だったローザは、「白人用の水は、黒人用の水よりおいしいのだろうか」と素朴な疑問を抱いたといいます。また、ローザの幼年期に強く影響を与えた存在が、彼女の祖父でした。彼女の祖父は、白人からの差別や暴力に対し毅然と立ち向かう人物でした。その生き方がローザの心に強く影響を与え、「自分は他人より劣っていない」という自尊心と、理不尽には屈しない精神を培います。
教育と家族、そして人権意識の芽生え
両親の離婚を経て、ローザは母や祖父母とともに暮らすようになります。母の影響で教育を重んじる家庭環境のもと、ローザは11歳で黒人女子職業学校に進学します。ここで出会った校長ミス・ホワイトは、白人でありながら黒人教育に尽力する女性でした。「自分は価値ある存在であり、差別されて当然の人間ではない」という考えを、ローザは学校生活の中で確信していきます。
16歳のとき、家族の看病のために一時中退を余儀なくされますが、19歳で理容師のレイモンド・パークスと結婚。彼は全米黒人地位向上協会(NAACP)の活動家であり、ローザもやがてNAACPモンゴメリー支部の書記を務めるようになります。彼女は、「法を変えるには行動が必要。投票権を得なければならない」と決意し、困難な選挙登録に何度も挑戦しました。制度的な妨害や人頭税など理不尽な壁を乗り越え、ついに選挙権を手にしたのです。
きっかけとなった「たったひとつの選択」
1955年12月1日、アラバマ州モンゴメリー。42歳になったローザは、縫製工場での仕事を終え、市バスに乗り込みました。バスの座席は白人と黒人で区分され、白人席が埋まると黒人は自分の席を譲らなければならない「暗黙のルール」が存在していました。
この日、白人席が埋まると運転手は「席を譲るように」とローザを含む黒人乗客に命じます。3人は従いましたが、ローザだけは席に座り続けました。運転手が「立たないのか?」と詰め寄ったとき、彼女は「立つ必要を感じません」と答えます。そして「警察を呼ぶぞ」と脅された際も、「どうぞ、そうなさい」と毅然とした態度を崩しませんでした。
ローザは後に、この瞬間について「その日、私はいったいどんな結果になるのか、まったく見当がつきませんでした」と振り返っています。彼女は「長年にわたる差別に心の底から疲れ果てていた」のです。
警察官が到着し、ローザは「あなたたちは、なぜ私たちをいじめるのですか?」と問いかけます。それは、“静かで、長い抑圧に耐えてきた人だけが発せる重い問いでした。しかし警察官は「規則は規則だ」と冷たく答え、彼女を逮捕しました。
「静かな抵抗」から始まった歴史的なうねり
ローザの逮捕は瞬く間に黒人コミュニティに知れ渡り、やがて歴史的な抗議運動へと発展します。NAACPのリーダーや地元の牧師たちが集い、「モンゴメリーの黒人全員でバス乗車をボイコットしよう」という決断が下されました。
この行動のリーダーとして選ばれたのが、まだ無名だった26歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師です。キング牧師は「非暴力主義」を掲げ、ビラ配りや教会での説教を通じてボイコットへの参加を呼び掛けました。
1955年12月5日、ボイコット初日。キング牧師の自宅から見えるバス停には、普段なら黒人労働者で満員のバスが、空っぽのまま発車していく光景がありました。キング牧師は「私はこの目で見たものをほとんど信じることができなかった」と語っています。これは、黒人たちの団結がいかに強いものであったかを象徴する出来事でした。
抵抗運動の長期化と、非暴力の決意
バス・ボイコット運動は381日にわたって続きました。黒人たちは徒歩や相乗り、黒人経営のタクシーを利用して通勤・通学を続けます。運動の過程では、白人至上主義団体KKKによる暴力や脅迫、キング牧師やローザへの嫌がらせも相次ぎました。ローザも「お前なんか、殺されてしまえ」といった脅迫電話に何度も悩まされました。
この運動の中で、キング牧師は「私たちは、過去も現在も、暴力を支持しない。我々の唯一の武器は、意義を唱えることである」と、非暴力主義の理念を鮮明に打ち出しました。ローザもまた、「非暴力主義は唯一の戦略ではないかもしれないが、私たち黒人にとって唯一勝利しうる道だ」と認めつつ、自分の中にある「毅然と立ち向かう強さ」も大切にしていました。
勝利と新たな始まり
1年以上続いたバス・ボイコット運動は、ついに1956年11月13日、連邦最高裁判所が「公共交通機関における差別は違憲である」という歴史的判決を下したことで終止符を打ちます。1956年12月21日、モンゴメリーのバスに黒人たちが自由に乗り込む姿が戻りました。
しかし、法律が変わっても、差別や暴力がすぐになくなるわけではありませんでした。それでも、ローザの「静かな抵抗」とその後の団結が、アメリカの公民権運動を大きく前進させたことは疑いありません。その波は1963年の「ワシントン大行進」や、1964年の公民権法制定へとつながっていきます。
その後のローザと私たちへのメッセージ
バス・ボイコット運動後も、ローザ・パークスは公民権運動の象徴として、アメリカ各地で講演や活動を続けました。彼女は数々の賞や栄誉を受け、2005年に92歳でその生涯を閉じました。
「私のことは、自由になりたいと願った人として覚えておいてほしいのです。ほかの人たちも自由になれるように」
この静かな願いこそ、私たち一人ひとりに「理不尽には決して屈しない心」と「行動する勇気」の大切さを教えてくれます。小さな勇気が、大きな変化を生み出す。その歴史的真実を、彼女の物語は今もなお私たちに語りかけています。「不条理に声を上げる勇気は、SNS時代の今日では以前よりも個人が持ちやすくなりました。しかし同時に、批判も受けやすい時代です。だからこそ、ローザの“静かな強さ”は現代の指針になるのではないでしょうか。


