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9/30(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/26
2025年秋のNHK連続テレビ小説「ばけばけ」の主人公・小泉セツに注目が集まっています。彼女は日本の近代文学史において、ひとりの異国人作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を精神面でも創作面でも支え抜いた、強くしなやかな女性そのものです。
「世界で一番良きママさん」と夫に讃えられた小泉セツ。その人生をたどると、激動の時代に翻弄されながらも前向きに生き抜いた、ひとりの日本女性の姿が浮かび上がります。
1868年、小泉セツは松江藩士小泉家の次女として生まれました。父・小泉湊は三百石を知行した家柄。母方もまた名家で、出雲国造の千家家とも縁戚関係にあり、幼いセツは本来であれば裕福な士族の娘として育つはずでした。
しかし、時代は明治維新。幕藩体制の崩壊とともに、武士の家々は次々と没落していきます。セツの実家も例外ではありませんでした。生後間もなく、子がいなかった親戚の稲垣家に養女に出され、やがてその稲垣家も生活が困窮。11歳になると機織りの仕事に精を出し、家計を支える日々が始まります。
セツが幼い頃、松江藩にフランス人教官がやってきて、洋式軍事訓練が行われました。子どもたちはみな外国人の姿に怯え泣き出してしまいましたが、セツだけは泣かず、士官に頭をなでられ、ルーペをもらったといいます。後に本人が「西洋人に対して心が開かれた」と語る出来事でした。
この「物おじしない」性格が、後年、異国から来たラフカディオ・ハーンとの運命的な出会いにつながっていきます。
セツは18歳で婿養子を迎えて結婚しますが、夫は家の貧しさに耐えきれず出奔。1年も経たずに別れ、22歳で正式に離婚します。子どもをもうけなかったため、稲垣家を離れ、再び実家の小泉家へと戻ります。
しかし、家業の機織りだけでは生活は立ち行かず、家計を支えるため外に働きに出るしかありませんでした。セツが選んだのは「若い西洋人が一人で暮らす家に住み込み女中となる」という仕事でした。これが、1891年、英語教師として松江に赴任したラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)との出会いとなります。
ハーンは日本文化に魅せられて来日したものの、日本語が全くできませんでした。一方のセツも英語は話せません。最初こそセツはハーンから英語を学ぼうとしますが、やがて二人は「ヘルンさん言葉」と呼ばれる独自のコミュニケーション法を生み出します。
「助詞は省いてもよい」「語順や活用も気にしない」といった、正しい文法に縛られない言葉。「スタシオンニ タクサン マツノ トキ アリマシタナイ」(駅で待ち時間があまりありませんでした)など、奇妙ながらも二人だけの共通言語となり、心の距離を縮めていきました。
ある日、鳥取の旅館で聞いた怪談話をセツが「ヘルンさん言葉」で伝えると、ハーンは「あなたは私の手伝いできる人です」と大いに喜びました。セツは物語が好きで、周囲から集めた昔話もたくさん知っていました。それらを語り手として夫に伝え、ハーンの創作活動を支えていきます。
やがて二人は深い信頼で結ばれ結婚します。結婚生活は13年余り。松江、熊本、神戸、東京と転居を重ねながら、三男一女に恵まれました。
1896年、ハーンは正式に帰化し、「小泉八雲」と名乗ります。姓はセツの実家から、名は「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに…」という出雲の古歌にちなんで、セツの養祖父が名付けました。
「パパさん」「ママさん」と呼び合い、家庭は温かさに満ちていました。しかし、八雲は日本語が不自由なまま。生活のあらゆる場面でセツの助けを必要とし、対人関係や家の購入、旅行の手配まで、セツが頼りでした。
執筆面でもセツの協力は絶大でした。東京に移ってからは、夫のために古書店で本を集め、物語を語って聞かせました。「自分に学がない」と嘆いたセツに、八雲は「この本、みなあなたのおかげで生まれましたの本です。世界で一番良きママさん」と感謝の言葉を贈ったといいます。「耳なし芳一」などの名作にも、二人の議論やセツの語りが色濃く反映されています。
八雲はセツを深く愛し、常にその存在に支えられていました。熊本時代、職場での孤独に耐えかねた心情を親友に「扶養する家族と幼い子供がいなければ、日本にはもう一日たりともいたくない」と漏らすこともありましたが、セツに対して愚痴をこぼすことはありませんでした。
また、晩年には健康を損ね、「私が外出することがありますと、まるで赤ん坊の母を慕うように帰るのを大層待っているのです。私の足音を聞きますと、ママさんですかと冗談などいって大喜びでございました」とセツは回想しています。夫婦の絆は最後まで変わらず、支え合う日々が続きました。
1904年9月、八雲は胸の痛みを訴え、しばらくして静かに息を引き取りました。セツは「少しでも介護や看病をして、覚悟をしておきたかった」と語り、その突然の別れを悼みました。しかし、八雲の死に顔には苦しみの色はなく、むしろ微笑んでいるように見えたといいます。
八雲は生前、すべての財産をセツに遺す遺言を残していました。家族や親戚もセツを支え、子どもたちとともに穏やかな日々が続きました。
八雲と死別した後、セツは能や茶道といった武家のたしなみを楽しみ、孫や子どもたちに囲まれながら穏やかに過ごしました。時に怒りっぽくなったとも伝えられますが、それもまた、最愛の夫を失った寂しさの裏返しだったのかもしれません。
訪ねてくる孫のためにおもちゃを用意し、夫の好きだったクリーム色の薔薇を霊前に供える日々。1932年、64歳でその生涯を閉じます。セツは雑司ヶ谷の八雲の墓の傍らで静かに眠っています。
今秋の連続テレビ小説「ばけばけ」は、こうした小泉セツの生涯に光を当てます。もしセツがいなければ、『怪談』や『骨董』といった名作はこの世に生まれなかったかもしれません。約13年8カ月の結婚生活は、彼女にとって最も生き甲斐を感じ、美しく輝いていた時期でした。
困難に屈せず、愛情深く、異文化を恐れず。小泉セツの人生は、いまを生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。「ばけばけ」を通して、その人生を体感し、彼女が遺したものに思いを馳せてみてください。