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ビジョナリー編集部 2025/09/16
20世紀のジャズ史における代表的人物の一人、ジョン・コルトレーン(John William Coltrane, 1926-1967)。ジャズという枠組みを拡大させ、精神性と芸術性を極限まで高めた彼の演奏は、没後半世紀を経てもなお、多くの人々に新たな発見と感動を与え続けている。その生涯と音楽をたどると、一人の音楽家が「音」そのものを通じて、宇宙と交信しようとした壮大な試みが見えてくる。
1926年9月23日、ノースカロライナ州ハムレットに生まれたコルトレーンは、音楽的に豊かな家庭に育った。父は楽器修理や演奏を行い、母は教会音楽に親しんでいた。幼少期にサックスを手にした彼は、10代の頃から地元のバンドで腕を磨き、第二次世界大戦中には海軍の軍楽隊でも演奏した。ここで培った規律と集団演奏の経験が、後の緻密でストイックな音楽性の下地となったといわれている。
戦後、フィラデルフィアに移り住んだコルトレーンは、急速に発展していたジャズ・シーンに身を投じた。デューク・エリントン楽団での短期的な経験や、ディジー・ガレスピー楽団での活動は、モダン・ジャズの先端に触れる大きな機会となった。そこで彼は、持ち前のトーンの柔らかさと探究心に富んだ姿勢で、徐々に頭角を現していく。
1950年代半ば、プレスティッジ・レーベルでの録音を重ねる中で、コルトレーンは自らのスタイルを確立しつつあった。『ソウルトレーン』『セッティン・ザ・ペース』などの作品には、ブルースやバラードを深く掘り下げる誠実さが表れている。同時に、複雑なコード進行を縦横無尽に駆け抜けるプレイスタイルは「シーツ・オブ・サウンド(敷き詰められた音)」と称され、聴く者を圧倒した。
1955年、マイルズ・デイヴィスのクインテットに加入。これが、コルトレーンのキャリアに決定的な転機をもたらす。マイルズのクールかつ革新的な音楽性と、コルトレーンの熱情的な探究心がぶつかり合うことで、両者は互いに刺激を受け、進化していった。
1959年、マイルズ・デイヴィスは歴史的名盤『カインド・オブ・ブルー』を制作する。このモード手法を用い、コード進行から自由になる方向を示し、ジャズの大きな転換点となった。そこでのコルトレーンの演奏も、すでに突出していた。しかし同時期、彼の頭の中にはまったく別の方向性も芽生えていた。
それが、後に「コルトレーン・チェンジ」と呼ばれる革新的なコード進行である。従来のII-V-I進行を超え、三全音や長三度を軸に転調を繰り返す手法で、理論的に整合性がありながら演奏者に高度な即興力を要求する。この構想を全面的に展開したのが『ジャイアント・ステップス』であった。
『ジャイアント・ステップス』の表題曲は、わずか36小節で急速に転調を繰り返す。テンポも速く、コード進行は複雑そのものだ。録音に参加したピアニスト、トミー・フラナガンは、名手でありながら初見ではその展開に追いつけず、ソロの途中で戸惑いが表れてしまった。
コルトレーン自身も『ジャイアント・ステップス』を録音した後に、「再現してみてほしい」と頼まれることがあったが、「いや、できないよ。あれは難しいからね」と苦笑しながら答えたという。
しかし当時、コルトレーンは薬物とアルコールの依存に苦しんでいた。マイルズのバンドから一時解雇されるほどの状態に陥ったが、1957年、彼は断薬を決意し、自らの内なる信仰と向き合うことで克服していく。彼が後年語ったように、断薬後には「神から新たな生命を与えられた」と感じたという。
この精神的覚醒は音楽に直結した。セロニアス・モンクのカルテットに参加し、ニューヨークの「ファイヴ・スポット」で繰り広げた長時間の即興演奏は、コルトレーンが完全に自由を獲得した瞬間を示している。音楽を通じて自己を超越し、宇宙と一体化しようとする姿勢が、以降の活動を方向づけることになった。
1961年、インパルス・レコードに移籍したコルトレーンは、マッコイ・タイナー(ピアノ)、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズ(ドラムス)から成る黄金カルテットを結成する。彼らは驚異的な一体感と自由さで、ジャズの表現領域を拡張した。
『アフリカ/ブラス』『インプレッションズ』などで民族音楽の要素や長時間即興を取り入れた後、1964年に録音された『至上の愛(A Love Supreme)』は、彼の人生と信仰の結晶といえる。コルトレーンはライナーノーツにおいて、「この音楽は神への感謝を表す祈りである」と記した。
「音楽は私にとって霊的なものであり、神と人をつなぐ橋なのです」と語る彼の姿勢は、聴き手の心を深く打つ。
1965年以降、コルトレーンはさらなる実験に踏み出す。『アセンション』『メディテーションズ』では、フリー・ジャズ的な集団即興を導入し、混沌の中から新しい秩序を探ろうとした。時に激しく、時に静謐なその音楽は、従来のジャズファンを困惑させつつも、新しい世代に強烈なインパクトを残した。
彼はインド音楽や東洋哲学にも傾倒し、音楽を「宇宙の法則を探求する手段」と捉えていた。イスラムやヒンドゥー思想、さらにはキリスト教神秘主義など、多様な宗教観を融合させ、音で普遍的な真理に迫ろうとしたのである。
1966年には来日公演を果たし、日本のファンに強烈な印象を残した。このときのコルトレーンはすでに病魔に冒されており、体調は万全ではなかった。それでも彼は演奏を止めず、時によだれを垂らしながらも全身全霊でサックスを吹き続けたと伝えられている。その姿は観客に「肉体を超えて音楽に身を捧げる聖者」のような衝撃を与え、日本でのコルトレーンの神格化に大きくつながっていく。
しかし1967年7月17日、コルトレーンは肝臓癌により40歳で急逝した。あまりにも早い死だったが、その短い生涯に残された録音は膨大であり、後世の音楽家に尽きぬ刺激を与え続けている。
コルトレーンの影響は、ジャズにとどまらない。彼のスピリチュアルな姿勢は、妻でピアニストであるアリス・コルトレーンやファラオ・サンダース(テナーサックス)らに引き継がれ、「スピリチュアル・ジャズ」という潮流を生んだ。またロック、クラシック、さらにはヒップホップにおいても、彼のフレーズや楽曲が引用されている。サンプリング文化の中で『至上の愛』や『ジャイアント・ステップス』が再生されることは、彼の音楽が時代を超えて響く証である。
さらに、サンフランシスコには「セント・ジョン・コルトレーン教会」まで存在する。彼の音楽を宗教的儀式に組み込み、精神的導きとする人々がいることは、コルトレーンがいかに「音楽を超えた存在」へと昇華しているかを物語っている。
ジョン・コルトレーンは、生涯をかけて音楽を通じた精神的探求を行った。彼にとって演奏とは娯楽ではなく、祈りであり、救済であり、真理の探求だった。40年という短い人生でありながら、彼の残した足跡は、ジャズを超え、人類の文化遺産の一部となっている。
「音楽は人を高め、癒やし、導く力を持つ」――その信念のもとに紡がれた旋律は、今も世界中で鳴り響き、聴く者に内なる光を呼び覚ましている。