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2025

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    沖縄返還、非核三原則をやり遂げた第61~63代内閣総理大臣・佐藤栄作の強い信念

    沖縄返還、非核三原則をやり遂げた第61~63代内閣総理大臣・佐藤栄作の強い信念

    「沖縄返還」と「非核三原則」。日本の歴史に深く刻まれたこの偉業の背後には、ひとりの政治家の強い信念と、時代を見据えた現実主義がありました。佐藤栄作。7年8か月に及ぶ政権を築き、激動の時代を駆け抜けた首相です。

    本記事では、佐藤栄作という人物の足跡を辿りながら、彼がどのようにして沖縄返還と非核三原則を成し遂げたのか、その背景に迫ります。

    幼少期から官僚時代へ――「待ちの政治家」の原点

    佐藤栄作は1901年、山口県田布施町で生まれました。厳格な家庭で育ち、少年時代は自然の中でたくましく過ごしました。東京帝国大学法学部を卒業後、鉄道省に入省します。地方勤務や左遷も経験し、華々しい出世街道とは一線を画していました。

    しかし、この経験が後の「慎重かつ現実的な政治家・佐藤栄作」を形作ったのです。組織人としての粘り強さ、情報収集力、そして適材適所の人事術――これらは官僚時代から磨かれ、やがて政界で大きな武器となりました。

    吉田学校で学び、政界へ――「人事の佐藤」の誕生

    佐藤は、戦後日本の礎を築いた吉田茂首相の薫陶を受け、「吉田学校」の優等生として頭角を現しました。1950年代には郵政大臣や大蔵大臣などを歴任。特筆すべきは、どのような派閥にも左右されず、自らの目で人材を見抜き、登用していく「人事力」です。

    「農林大臣は誰がいいかな」と側近に尋ねては、健康状態や適性まで細かく把握し、最善の配置を行う。その徹底した秘密主義と情報収集力は「早耳の佐藤」として政界に知られていました。

    池田勇人の死と首相就任――「高度経済成長の陰で」

    1964年、東京オリンピックの成功を花道に、前任の池田勇人が病に倒れました。佐藤は自民党内の調整を経て、首相に就任します。就任早々、五輪後の不況、証券恐慌、企業倒産の急増など、経済面の危機に直面します。

    ここで佐藤は、山一證券への日銀特別融資や、戦後初の赤字国債の発行を決断。急場をしのぎ、日本経済を成長軌道へと戻します。その後は「いざなぎ景気」と呼ばれる空前の好景気を迎え、年平均10%を超える成長率を実現しました。

    しかし、経済成長の裏で都市部の住宅難や公害問題が深刻化。佐藤は「一世帯一住宅」を掲げ、住宅建設五か年計画を推進。また、公害対策基本法を制定し、後の環境庁設立へとつなげるなど、社会開発政策にも注力しました。

    沖縄返還への執念――「日本の戦後は終わっていない」

    佐藤栄作の政治人生を語る上で、沖縄返還への執念は欠かせません。1965年、首相就任から間もなく沖縄を訪れ、那覇空港で

    「沖縄の祖国復帰がない限り、わが国にとって戦後は終わっていない」

    と力強く語りました。

    この言葉は、領土回復を超えた「戦後体制の完成」への意志の表れです。佐藤にとって沖縄返還は、吉田茂がサンフランシスコ講和条約でやむなく残した“未完の宿題”でもありました。

    交渉は困難を極めます。ベトナム戦争のさなか、沖縄の米軍基地からは爆撃機が飛び立ち、国民の反戦運動も激化。日米の利害は複雑に絡み合っていました。そんな中、佐藤は訪米し、ジョンソン大統領や後のニクソン大統領と粘り強く交渉。最終的に1972年5月、沖縄返還協定の発効により、27年ぶりの祖国復帰を実現させます。

    その裏では、米軍基地問題や経済的負担、そして「有事の際の核持ち込みを認める」という密約も交わされました。理念と現実の狭間で、佐藤は「理想を掲げつつも、実現可能な妥協点を探る」現実主義者としての顔をのぞかせます。

    非核三原則の提唱――「核の時代をどう生きるか」

    沖縄返還と並んで、佐藤政権のもうひとつの象徴が「非核三原則」です。1967年、通常国会の施政方針演説で佐藤はこう述べました。

    「20世紀後半の人類は核時代に生きている。この核時代をいかに生きるべきかは、今日すべての国家に共通した課題である」

    国会答弁では「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という方針を明言。これは冷戦下、アメリカの核の傘に守られつつも、独自の平和主義を打ち出す高度なバランス外交でした。

    さらに、「武器輸出三原則」や「専守防衛」の方針も明確化し、日本の安全保障政策の基盤を築きます。しかし一方で、日米間の密約も存在し、理念と現実のギャップは大きな課題でした。

    ノーベル平和賞受賞――「日本のためによかった」

    佐藤栄作は、非核三原則とアジアの平和への貢献を評価され、1974年に日本人として初めてノーベル平和賞を受賞しました。授賞式後、「日本のためによかった。大変うれしい」と語り、その賞金を国連大学の発展に寄附しています。

    しかし、国内での評価は一様ではありませんでした。沖縄返還時の密約発覚や、日米繊維摩擦、ニクソン・ショックによる経済的混乱など、政権の後半には批判も強まりました。

    また、退陣表明の記者会見では「新聞は偏向的で嫌いだ。国民に直接語りたい」と発言し、テレビカメラに向かって一人語りを続けるという異例の光景も世間の話題となりました。

    政治家としての矛盾と信念――「慎重さ」と「大胆さ」の間で

    佐藤栄作は「待ちの政治家」と呼ばれるほど慎重な姿勢で知られ、一歩ずつ着実に政策を進めていくタイプでした。しかし、時に大胆な決断力も発揮します。沖縄返還交渉で外務省が消極的な中、自らブレーンを動員し、アメリカの動向やタイミングを徹底的に調査。「理想」と「現実」のはざまで、どこまで理念を貫き、どこで妥協すべきかを冷静に見極めていたのです。

    1968年、チェコスロバキアの「プラハの春」にソ連が軍事介入した直後、岐阜での講演後、こう漏らしています。

    「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」

    この言葉からも、佐藤が単なる理想主義者ではなく、安全保障や国益を冷静に見極めていた現実主義者であったことがうかがえます。

    長期政権の終焉と歴史的評価――「完成と転換」の二重性

    1972年、沖縄返還をもって佐藤は自民党総裁を辞任します。7年8か月の長期政権は日本の歴史の中でも異例の安定を実現し、後の自民党長期政権の礎を築きました。しかしその一方で、政権の末期には経済の失速や外交の遅れ、後継者争いの混乱など、多くの課題も露呈します。

    佐藤は自身の評価について、日記に「各社朝刊は一斉に小生の批判の記事で紙面をつぶす。いつまでつづく事やら」と記しています。時代の課題に向き合い、矛盾と葛藤を抱えつつも、信念を貫いた政治家の姿がそこにはあります。

    まとめ:矛盾と闘い、信念を貫いたリーダー

    佐藤栄作は、戦後日本の「完成と転換」を体現した政治家でした。長期政権の安定、沖縄返還という未曾有の外交成果、非核三原則の提唱。これらはすべて、時代の要請と彼自身の信念が交錯した結果です。

    私たちが佐藤栄作から学ぶべきは、困難な時代においても「理想」を掲げつつ「現実」と向き合い、バランスを取りながら前進し続けるリーダーシップのあり方です。その強い信念と慎重さ、そして時に見せる大胆さは、時代を超えて今もなお、多くの示唆を与えてくれます。

    #日本史#現代史#戦後日本#日本政治#歴史#政治#佐藤栄作#歴代首相#日本のリーダー#ノーベル平和賞

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