123年の歴史を紡ぐ「モノ好き集団」の哲学――エ...
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映画『E.T.』に着想、大火傷を乗り越えピザーラ創業。「30万ワンユニット」の逆張り戦略と「社員は100%平等」の哲学
ビジョナリー編集部 2025/12/18
日本の宅配ピザ市場を切り開いた「ピザーラ」。その創業者である淺野秀則取締役兼グループ代表のキャリアは、高校時代の父の病気、学生起業、そして自らが火に包まれた大火傷という壮絶な経験から始まった。「30万ワンユニット」という独自の着眼点からいかにして巨大な食の帝国を築き上げたのか。そして約60業態を展開する今、社員に伝え続ける「独立自尊」の精神とは。波乱万丈の半生と経営哲学を伺った。
父の病気、火事と大火傷。波乱の末に見つけた「ウーロン茶」という商機
まず、フォーシーズを創業された経緯を教えてください。
もともとはウーロン茶を輸入する商社として1980年にスタートしたのが始まりです。しかし、そこに至るまでが大変でした。
それまでは幼稚舎から慶應に通う、いわゆる「お坊ちゃま」の箱入り息子でした。しかし、高校2年の時、父が急病で倒れたことで私の人生は一変します。長男として弟たちの面倒も見なければならない。母は頭を下げるのが嫌いなタイプでしたが、社長夫人から一転、両国に麻雀店をオープンさせ、私たちもそれを手伝いました。
当時、私は海外に行きたかったのですが、父が倒れたことでそれも無理になりました。高校3年の夏、どうしてもハワイに行きたくて、かき集めたお金でJAL便に乗りハワイに行きました。ジャンボ機なのにガラガラで、空港でレイをかけてもらったことに「これはすごい!!」と感動したのを覚えています。
「毎年ここに来たい」と思い、学生向けのハワイツアーを企画・主催することにしました。ハワイ大学のサマーセッションと組み合わせて、安い費用で1ヶ月滞在できるツアーを企画したのです。
今で言うインターカレッジ組織のような形で、関西にも支部を作り、全国規模で展開しました。多い時は年間400人くらい集まったでしょうか。チラシを自分たちで印刷して各大学に配り、「10人集めると1人タダ」という仕組みを作るなど、やっていることは今と変わりません。
大学を卒業した(あまりに楽しくて6年間在籍しました)後、ツアーのOBも集まれるクラブハウスを作ったのですが、開店後10日目に火事を出してしまいました。鶏肉を揚げている時に油に火が移り、保険もかけていなかったので焦りました。新聞紙をかぶせれば消えるだろうと思ったら、まるで火炎放射器のようになり、私自身も全身に三度の火傷を負ってしまったのです。
半年間、女子医大に入院しました。髪も眉毛もなくなり、顔もひどい火傷でした。退院後、母がテレビの「夜のヒットスタジオ」を見ていた時です。ピンク・レディーが「私たちはこれで痩せました」とウーロン茶を飲んでいた。それを見た母が 「これよ」 と言ったのです。それがきっかけとなり、ウーロン茶の輸入商社を始めました。
映画『E.T.』がヒント。「30万ワンユニット」でつかんだ逆張りの勝機
どのようにして「ピザーラ」の着想を得たのでしょうか。
ウーロン茶から始まって様々な事業に挑戦しました。そして、レンタルビデオ店などを手がけていた頃、映画の『E.T.』を観に行ったんです。その一番最初のシーンがデリバリーピザで、「これは何だ」と強く印象に残りました。
私は目標が明確でないと動けないタイプなのですが、当時は「次のビジネス」を探していました。その時の軸が 「30万ワンユニット」 という考え方です。当時の総理大臣の給料が300万円だと言われていました。いきなり月々300万円は難しくても、30万円ならできるだろうと。日々節約をしながら、月に30万円儲けられるビジネスをワンユニット(1店舗)として、1年で2店目、3年かからず3店目、そうすれば5年で10店できるかもしれない、と。総理大臣になるのは相当困難だが、このやり方なら同じ給料を目指せると思ったのです。
その視点で探していた時に、『E.T.』の宅配ピザが舞い込んできたのです。当時はみんなが「ピザはダメだ」と思っていたからこそ、かえってチャンスだと。逆張りです。
結果、5年で10店どころではありませんでした。親戚や、当時手伝ってくれていた赤帽の運転手さんも始めてくれて、1年で15店くらいまで行きました。その後も100店まではあっという間でしたね。バブルが崩壊し、世の中が不景気になった時も、ゴルフである大手飲食チェーンの幹部の方の話を聞き、「今がチャンスだ」と思いました。景気が悪いからこそ物件も安く、人も集まる。そこから一気に成長し、その翌年には200店くらい出店しました。
約60業態への拡大。「世界の一流」を体験させることが最大の教育
「ピザーラ」だけでなく、多業態を展開されています。理念はどのように浸透させているのですか。
ベースには、昔から私自身が食べることが好きだという思いがあります。「ピザーラ」のデリバリーには向かないけれど美味しいBLTがあるなら、それをお皿で提供するレストラン「トゥ・ザ・ハーブズ」を作ろう、と。学生時代にハワイで出会った「クア・アイナ」も、ずっと日本に持ってきたいと思い、交渉を続けて実現しました。
「ジョエル・ロブション」の事業は、ジョエル・ロブション氏が10年間休んだ後にやりたかった「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション」という新しい業態(カウンターで提供するフレンチ)を日本で展開するパートナーになったことが発端です。その後、恵比寿のシャトーレストランも運営することになりました。試食会が夕方5時から夜中の12時過ぎまでかかった時は、フレンチの奥深さにしびれましたね。
これだけ業態が広がると、理念の浸透が難しく思われるかもしれません。しかし、やり方はシンプルです。それは 「一流のものに触れて、それがなぜ一流なのかを知る」 こと。つまり、世界で一流のところへ連れて行って、本物を体験させるのが一番早いのです。
昔は社員旅行でハワイへ行き、ホスピタリティとは何かを皆で体験しました。今もキャンペーンの成績優秀者を良いリゾートへ連れて行っています。「トップ5」という成績優秀者を集めた会議も、コロナ禍をきっかけにオンラインで各支社に見せるようにし、良い事例を水平展開しています。
「天は人の上に人を造らず」。社員には100%平等で接する独立自尊の精神
社員の方々に接する上で大切にされていることは何ですか。
私は、生まれた時からずっと変わっていないと思います。人に対する考え方は、福澤諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉の通り、独立自尊の精神を大切にしています。
ですから、うちの会社ではアルバイトであろうと、例えば海外から来た社員であろうと、一切関係ありません。 「みんな平等」 です。100%平等に、同じ接し方をします。海外から来た社員には、安心して暮らせるような環境を整えて提供しています。
将来独立したいという社員がいれば、「絶対に行っていい」と応援しています。うちにはピザもあれば、フレンチも、ハンバーガーも、うどんやそばもある。多様な業態があり、チャンスもたくさんあるわけですから、どんどんチャレンジしてほしいと思っています。


