
ファッションロータリークラブで得たかけがえのない...
5/22(木)
2025年
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八木原 保 2025/05/22
私が理事長としてかかわらせていただいている業界団体には、東京ニット卸商業組合というものもある。まさに、私が本業としていたところだ。同団体には私が創業した当時から加入しているが、30代から50代までは仕事が忙しかったこともあり、ただの一会員として名を連ねていただけだった。しかし年を追うごとに理事に、また副理事にと推され、平成17年には理事長という要職を受けることとなった。
先にも話した通り、私が丁稚奉公生活を送った浅草橋の界隈をはじめとして、日本にはたくさんのニット会社があった。歴史自体はもっと古い。編み物は莫大小(メリヤス)と呼ばれ、メリヤス屋とオデキは大きくなるとつぶれるということわざがあった。産業の発足は明治時代にさかのぼる。明治38年には東京メリヤス同業組合が設立され、戦時統制を経て昭和36年東京メリヤス卸商業組合という新組織が発足した。
その後日本にファッションのブームが到来し、メリヤスの呼び方も外着を中心とする「ニット」へと変化した。そして私が創業した昭和40年代は最盛期を迎えており、作れば売れるといわれるほど品不足の状態だった。
組合にも多くの有力企業が名を連ねていた。レノウンにナイガイ、小杉産業にワールドと、みなニットの中心の会社だ。ニット専業メーカーとしては、組合に入ることは大きな勲章と考えられるようになった。
しかし、大きく発展していたニット業界はその後大幅に減退した。1000以上はあったとされるニットの製造業者は4分の1近くにまで数を減らした。ニット製品の製造拠点は中国や韓国に移動したものの、原毛原綿といった原材料も高騰し中国のものづくりすら難しくなった。流通業界も経営統合を含めた再編が続く中、ニット卸商業組合にも会員企業の脱退や廃業倒産などで会員数が減り、存続の危機にさらされた。
組合員としてニット卸業組合の理事長を20年間ほどやり、また東京ニットファッション健康保険組合には最初から加入し、最後には理事長も務めた。ともに実証を行っていた私は、現状に強い危機感を覚えた。そして理事長を引き受け、何としても会員企業各社に元気になってもらうよう、組合の抜本的な改革へと乗り出した。
基本方針として挙げたのは、年2回の講演会と懇親会の実施、会員増強に特別会員制度の導入、そして人材育成だ。懇親もさることながら勉強も重要だと考え、東京ニットファッション工業組合と共催の「メリヤス塾」をはじめ、各種の講演会やセミナーを実施した。
また組織自体の強化にも努め、紡績会社にアパレルメーカー、付属品メーカーにも声を掛けた。すると業界で元気のある有力企業のトップにも参加してもらえるようになり、会員も増加していき、経済産業省管轄の諸団体の中でも「もっとも元気のある組合の一つ」と評価されるまでになった。
さまざまな形の取り組みを通し、なんとか業界を盛り上げることができた。「メリヤス塾」は今も続いており、昨年までに17期実施することができている。今後も意義のある組合活動を行い、ニットの明かりを次世代にしっかりと引き継いでいきたいと思っている。現在はエトワール海渡の早川謹之助社長が理事長になって運営している。私は名誉顧問として一緒に業界発展に努めている。