
若き日の原宿 新天地での挑戦
5/22(木)
2025年
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八木原 保 2025/05/04
右も左もわからないまま、浅草橋で私は毎日懸命に働いた。そうして一生懸命仕事をこなすうちに、社長から徐々に目をかけていただけるようになった。「さすがだ、そういえば君は学校の成績も一番良かったね」といった言葉もいただいた。確かに学校の成績は悪くなかったが、社長から評価いただき、いつしか会社の経理をやらないか、という話に発展していった。
そうして社長の勧めを受け、村田簿記学校の夜間コースに通い出した。学校には3年ほど通った。毎日試験の報告が課せられていたため、一生懸命頑張らなければならなかった。ただ、嫌ではなかった。東京に来て、何かを始めようと密かに思っていたからだ。一日一日を大切にしながら、毎日吸収して、一つ目標を定めて何かを勉強しようという志を抱いていた。そのため、夜間に学校に通って経理を学ぶことを苦労とは思わなかったし、やりがいもあった。
こうして私は、ファッション業で一番大事なことを学ぶことができた。それはまさに、数字を見るということだ。ニット製品は、材料から製品になるまで物凄く時間がかかる。従って、数字を厳格に管理していかなければ、損失が出てしまうのだ。右手でペンを握ってデザインに励み、左手でそろばんをはじく。ファッション業の経営に一番重要なことを、この時期に体得することができた。感性だけが先行しがちな業界であるが、この両立ができて初めてビジネスとして成立するのである。
経理の勉強は3年間全うした。確かに難しかったが、そのような厳しさを乗り越えていこうという向上心と、最後まで学び通そうという目標を立てていた。激務に追われたニット会社の丁稚奉公の日々が7年間続いたのも、勉強との両立を図るうちに時間の経過など全く考えなかったからだというのが本音なのかもしれない。
こうして私は、ニット製品の製造や流通、経理の基礎を学んだ。ファッション業界の奥深さに感銘を受けたのも、振り返ればこの頃のことだ。ファッションの中心は、浅草橋からほど近い日本橋周辺。銀行などでは、同地での支店長を務めることがその後の出世コースとなっていた。東日本橋、人形町、堀留などは、お金と物が動く経済の中心地であった。このような地域であくせく働いたことが、私の血となり肉となった。
そして私は、次のステップに踏み切った。東京の地で、事業を興す。新天地に選んだ場所が、原宿だった。