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2025

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    「日本の若者の文化を変える」――壮大な夢を描いて

    #14「日本の若者の文化を変える」――壮大な夢を描いて

    原石からダイヤへ

     たった6.5坪。そのうち、3坪をストックにしたため、実際には店舗のスペースは、3.5坪=7畳です。オープンから6年間は、たった7畳の小さな店だったのです。だからこそそれを逆手にとって、学生のドミトリーのような雰囲気の内装にしました。ただ、当時は原宿のはずれでしたので、知る人ぞ知るという無名の店でした。当然、広告を出すお金もありません。

     それでもどこからか噂を聞きつけて、「原宿に『ビームス』っていう、なんかちっちゃいけど面白い店があるよ」ということで、通(つう)の方たちがやってきてくれました。デザイナーや洋服業界の方――当時ようやく『スタイリスト』という職業が出てきたのですが、そういう方たちや出版社の編集者…そうしたプロの方々が時折訪れる、一般の方にはほとんど知られていない店だったのです。

     先にも述べましたが、当時は並行輸入の走りで、アメリカに行くのもとても大変な時代でした。幸い、重松さんのお姉さんが「パンナム」というアメリカの航空会社の関係者だったため、安い航空券を確保してもらったりもしていました。

     また、オープンしてから7年間は、二足のわらじを履き、電通へ行きながらビームスを手伝い、非常に忙しい日々を送っていましたが、ある日局長に呼び出されました。「設楽、副業やってるだろ」、と。「聞くところによると、『ビームス』っていうお店をやってるらしいじゃないか」と、完全にバレていました。「うちは副業禁止だからな」と言われ、「やばいな」と思いましたが、とっさに「いやいや局長ね、副業っていうのはそっちからもギャラを取ることでしょう。僕はギャラを取るどころか結構注ぎ込んだりしてますから、これ副業じゃなくて趣味でしょ」と返したら、「そりゃそうかな」と納得してくれ、許してもらえました。そしてその数年後、8年間勤めた電通を退職しました。

     実際、微々たるお金ですが、退職金はすべてビームスに注ぎ込みましたし、2、3年目の資金繰りが厳しかったときは、自分の給料からアルバイト代を捻出していましたので、本当に趣味に近かったのです。初めはまだレジもない状態でした。

     しばらくして、今の「ビームス 原宿」のちょうど階段のところにレジを置きました。スタッフも重松さんが店頭に立ってくれたり、買い付けにも行ってくれたりしていました。社員1人とアルバイト1人の2人だけでやっていました。昼飯を食べに行く時間もなかったので、よく出前でラーメンを取っていました。お客さんも少なかったので、レジの下で食べながら、お客さんが来ると「いらっしゃいませ」と接客する。たった、7畳の店ですから。

     ただ、そんな小さな店でありながら、父と僕には大きな目標がありました。それは、「日本の若者の風俗・文化を変えよう」という、強烈な想いです。

     今考えると、とてつもないことです。原宿のはずれのたった7畳の店なのに、「日本の若者の文化を変えるぞ」という大それた夢を持っていた。それでも、数十年間やり続けて、まだまだではあるけれども、少しずつ、湖に投げて波紋が広がるくらいには、一石を投じることができてきたのかな、という想いはあります。物事をはじめるのに、はじめは小さな規模でも、夢や目標まで小さくする必要はまったくないと僕は思います。実際、その夢を持たずに、たとえばその日の生活のお金を稼ぐなど、目の前のことだけを僕たちが考えていたら、今のビームスはなかっただろう、と思うのです。

    #ビームス#BEAMS#設楽洋#タラちゃん#経営#ファッション業界
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