
「日本の若者の文化を変える」――壮大な夢を描いて
6/15(日)
2025年
SHARE
設楽 洋 2025/06/15
晴れてビームスの店舗をオープンしましたが、一般のお客さまは一向に来られませんでした。そんなある時、初めて雑誌「POPEYE」に、小さな記事が掲載されました。それも、以前話した僕の大学時代の悪友が、POPEYEの編集者を紹介してくれ、実現したものです。広告を出すお金もなかったので、非常に嬉しかったことを覚えています。POPEYEのおかげで、少しずつ一般のお客さまが来てくださるようになりました。ただ、モノはいいはずですが、価格もいい値段なので、なかなか売れませんでした。結局創業後半年から1年くらいは、業界の方しか買っていただけない時間が続きました。
僕が電通にいてビームスのためにやったことと言えば、情報をビームスに送ることと、またオープン時のDMのデザインや、ビームスやビームスFのロゴマークの制作でした。つまり、ブランディングや広告です。電通にいて、社内外の才能あるデザイナーを知っていたので、そういう人に「金はないけど、ロゴ作ってくれない?」と頼み込んだわけです。例えば、大手化粧品会社の商品ロゴを手掛けていた有名なデザイナーに、ジャケット一着と引き換えに『ビームスF』のロゴタイプのデザインを頼みました。そうして、普通であれば高額なギャラを払わなければならないデザインを、どうにかこうにかやってもらっていました。
広告に関しては、1978年に雑誌「Men's Club(メンズクラブ)」で、初めてビームスとして出稿をするチャンスに恵まれました。ページの3分の1の、縦に細長い枠。それもやはり、知り合いの編集者に「空き枠があったら教えてくれ」と頼んでおいたのです。そして、枠が空いた時に6万円で承諾してもらいました。
枠が決まったら、次は掲載するデザインです。それもまた、ロゴをデザインしてくれた方に頼みました。彼は今度も「鉛筆画でいいかな」と、描いてくれました。電通のあちこちに人脈があったから、できたことです。ギャラも破格の金額で受けてくれました。通常であれば、当時の価格でもページで60~70万(現在の200~300万円ほど)はしたのではないでしょうか。
これまでも述べたように、当時は物と情報がなかった時代でした。ただ、情報は電通にはすごく集まってきていて、ファッション関係の繋がりは、重松さんがつくってくれ、のちにはジムの八木原さんがいらっしゃいました。
そんなふうに、広告枠を安く手に入れたり、ロゴタイプを作ってもらったり、ブランディングやマーケティングをしたりと、電通は情報や才能には事欠かず、社内外でクリエイターとの繋がりができていきました。
10周年の頃には、僕はもうビームス一本になっていました。ようやく、ある程度まとまったお金ができたので、10周年イベントを企画したのです。すると、僕が電通の時にイベントを一緒にやっていた仲間の全員が手弁当で手伝ってくれました。ノベルティグッズにしても、当然無償でこそないものの、儲けなしで「タラちゃんのためにやるよ」と言って、原価のみで製作してくれたのです。
電通にいた人間も、電通の時に一緒にやっていた制作プロダクションの方たちも、「タラちゃんのためだったら」と、全員手弁当でやってくれたのです。10周年の時も、イベントをすべて手掛けるほどのお金まではなく、会場費と設営費しか払えませんでした。それを、演出や司会、モデルさんも本当に安価で、あるいは無償で、皆集まってくれたのです。僕が電通を辞める時には、3,000枚ほどの名刺が手元にありました。僕はそれを見て、「僕から電通の看板が無くなったら、どうなるのだろう。このうちの10人くらいは、付き合ってくれるかな」と思っていました。しかし、蓋を開けてみると10人などではなかった。
僕は、「こういう方たちを、一生大切にしよう」と思いました。金看板がなくなっても、「設楽洋と一緒だったらいいよ」と言ってくれる人たち。この想いは、いまでも強く僕の中にあります。その後会社が大きくなり、利益も生み出すことができるようになり、たくさんの社員を迎え、お金も払えるようになりました。しかし僕の原点は、やはり人と人の繋がりであり、それは社員が増えた今も変わりません。もちろんビジネスであるからお金は発生しますが、「ビームスとだったらもう無償でもいいから一緒にやりたい」。そんなふうに言ってくれるような、ビジネスを超えた「仲間」たちを、たくさんもっていたいなと強く思っています。