
新レーベルの立ち上げ――仲間の反対を受けながら
6/25(水)
2025年
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設楽 洋 2025/06/16
これまでお話ししたように、僕のビームス創業期の役割は、宣伝やマーケティング、デザイン、様々な情報収集でした。そうした活動などを経て少しずつ、1977年、渋谷のファイヤー通りにビームス渋谷店を開店させることができました。これも原宿1号店同様に、小さな長屋のようなところに、6.5坪の非常に小さなお店を構えました。
しかし、1976年に開店したビームスが、翌77年に2号店をオープンできたということは、僕にとっては感慨深いものがありました。1年目の後半で「POPEYE」に載ったことなどをきっかけに、ある程度売れるようになってきて、2軒目をオープンすることができたのです。翌年の78年、開業から2年経過したときに、屋号の前から「アメリカンライフ・ショップ」の文字を取りました。普通の「ビームス」という屋号だけになったわけです。スタートして2年間は、いわゆる西海岸のアメリカンライフを謳う店でしたが、流行がだんだんと東海岸へ移っていったと感じていたのです。それは、プレッピー(名門私立学校に通う学生)の文化でした。
そこで、78年に『ビームスF』という新レーベルをつくりました。原宿1号店の6.5坪の隣の壁際、現在のフィッティングルームになっている場所です。今度はなんと2.5坪の店でした。2.5坪のプレッピーの文化を伝える店が隣にできたわけです。そこからずっとのちに至るまで、ビームスは、自然発生的に店が増えてきました。流れが東海岸に移ったから『ビームスF』ができ、東海岸ファッションのルーツはヨーロッパにあるということで、『インターナショナルギャラリー ビームス』ができ、といった具合です。
『インターナショナルギャラリー ビームス』の誕生によって、それまではメンズのお店だったのが、マニッシュ(男性のような雰囲気)を好む女性のお客様が来てくださるようになりました。ただ、やはり男性とは首や腕まわりのサイズが異なるため、「これは、女性用を作らなければならない」と着目しました。そうして、一部で実験的に展開していた女性服を『インターナショナルギャラリー ビームス』で取り扱うようになり、そこから派生して『レイ ビームス』が誕生しました。常に時代の流れとともに、自然発生的に新レーベルを立ち上げてきたのです。
そのため、ビームスの経営スタイルは、一つの成功事例ができたらそれを何年後、何店舗にして何十億狙います、といったものではありません。「時代の流れやお客さまの求めるものがこうなってきたから、これをつくろう」というスタイルを昔から貫いてきました。中でも、かつて『ビームスF』で、『ズートタイプ』というボックス型のジャケットを販売し、昔流行ったものをそのまま再現することによって、それが爆発的に売れ、僅か2.5坪の店で月商2,500万円となったことがあります。この坪当たりの売上記録は、いまだに破られていません。
その頃から、「これは、いけるかもしれない」という手ごたえを感じはじめていました。その後もさまざまなことを学びました。たとえば、ある商品が流行って爆発的に売れると、二番煎じ、三番煎じが出てきて、街中にそれが溢れ出します。そうなると、流行に敏感なお客さまというのは、「あの店は、いまだにそんなことやっている」と感じて、去っていってしまうのです。それによって、在庫を大量に抱えて失敗したこともあります。そうした試行錯誤や実践、失敗、成功を経て、時代の流れを読んで仕入れ、陳列をしていく極意を肌で学んできました。
ビームスのスタート時は、先に述べたとおり、ものと情報がなく、固定の仕入れ取引先もありませんでした。仕入れ取引先を設けようにも、うちのロットではとてもできない。そこで、現地買い、現地仕入れ、バッグを持って海をわたる並行輸入です。雑誌編集者から「アメリカで『ニケ』という運動靴が流行っているよ」と言われれば、ニケを探しに行き、ようやく見つけて買ってきて陳列するときにはじめて、「これは『ナイキ』と読むらしいぞ」と気づく。そのくらい、情報のない時代でした。しかし、店の成長とともに、次第にお取引をしてくれる先も出てきました。
そのような中、1980年代、いわゆる『ロゴトレーナーブーム』が起きました。それまで、ビームスはアメリカからインポートした、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)をはじめとする大学のロゴトレーナーを販売していました。しかし、常時それらを仕入れるルートを確保することは難しくもうその当時は、並行輸入で買い付け、バッグに入れて持ってくる、というやり方ではなくなっていました。 ただ、UCLAなど大学のTシャツやトレーナーなどは、現地の大学生協へ行って調達していたため、数も十分に確保することはできませんでした。
そこで、「輸入が難しいならば、本物に近いオリジナルをつくろう」と考えました。「ビームスユニバーシティ」という新ブランドをつくり、大学のロゴ風のデザインの入った服を製作したのです。これが爆発的にヒットし、東京の街中がロゴトレーナーを着た人たちで溢れる状況になりました。なかでも一番売れたのは、『ボートハウス』というブランド。その他にも『クルーズ』『シップス』など、こぞってロゴトレーナーを出していた時期でした。