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2025

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    八百屋跡の6.5坪に夢を託して

    #12八百屋跡の6.5坪に夢を託して

    原石からダイヤへ

     ビームスを始める時に「どういうネーミングにしようか」という話になりました。父は、ダンボールのパッケージ会社が新光紙器、つまり「新しい光」だったので「『光』から取りたいね。『ビーム』がいいんじゃないか」と発案しました。加えて、当時のニューヨーク市長がエイブラハム・デイヴィッド・ビームという方だったので、「その名前を取りたい」と言ったのです。

     僕は反対でした。自分でもいくつか案を出していましたから。今思えば、ビームで良かったと思いますが、そこに「ビームじゃなくて、『S』を付けよう、『光の束』にしよう」と言い出したのは、僕でした。父の「ビーム」に、僕が「S」を付けて「ビームス」。こうして、社名が決まりました。

     父は、飲みに行って知り合う若者にいつも「君がやりなよ」と言っていました。今回のビームスも、そこで知り合った方が企画書を出したため、「君がやってよ」と言ったそうです。しかし、彼はちょうど「Fine」の編集を手掛けていて、「編集に興味があるから、自分はそっちに専念したいのです」と、断ったそうです。その代わりに彼が紹介してくれた後輩というのが、重松さんという方でした。

     当時、重松さんは女性向けアパレルのメーカーで働いていました。こうして1歳年上の重松さんとともに、準備を始めることになりました。そのときに僕が電通をすぐ辞めなかったのは、まだ始めたばかりで稼げる状況ではなかったことと、電通にいたほうが様々な情報が入ってくることでした。ですから、僕が物と情報がない時代に情報を集め、重松さんは買い付けを行い、店の運営をする、という役割分担でした。

     先に述べましたが、僕の学生時代に文化・流行が生まれたのは夜の街でした。新宿、赤坂、六本木…そういった街から新たなトレンドが誕生していたのが、ベトナム戦争が終わり、学生運動が終わると、スコーンと青い空が広がったのです。それまで夜の世界で遊んでいた人が、昼にサーフィンやスケボーを楽しむようになりました。そして、その風は、原宿の地へ吹いてきました。そうした理由から、ビームスをどこに出店するかと考えた際に、選んだのは、原宿でした。

     当時は原宿にはまだほとんどお店がない時代でしたが、物件を探すときに、竹下通りに一軒と、現在のビームスがある場所に一軒、店舗候補がありました。後者は、元は八百屋でした。八百屋が建てた新しいビルの片隅の6.5坪の店と、竹下通りの小さなお店しか選択肢はありませんでした。もしもあのとき、竹下通りに出店していたら、ビームスの歴史は変わっていたかな、と思うことがあります。

     当時は、竹下通りもほとんどファッション関係の店はありませんでした。小さな古着屋が2軒ほどあっただけです。ですから、竹下通りに出店するか、それともこの八百屋の跡に出すか、迷いました。当時原宿には、セントラルアパートにブティック アポロという店、のちのDCブランドとなる、マドモアゼルノンノンの店、後は小さなミルクという店がありました。

     ビームスは結局、八百屋の跡の6.5坪の店でスタートしました。6.5坪というと、非常に狭いように思われるかもしれません。当時のマドモアゼルノンノンもミルクも小さなお店だったのです。表参道にも、のちのビギとなる、菊池武夫氏の小さなお店が半地下にあり、他にはキディランドとオリエンタルバザー。キラー通りには、のちのニコルとなる、小さなニットのお店がありました。現在のラフォーレ原宿の場所にはまだ教会が建っていた時代です。あとは本当に、住宅街のみでした。

     そのような小さなお店に、僕は大きな夢を馳せ、スタートしたのです。

    写真引用元:
    東京おとなガレージ | 昭和の残像/昭和55年・原宿

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