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2025

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    新レーベルの立ち上げ――仲間の反対を受けながら

    #17新レーベルの立ち上げ――仲間の反対を受けながら

    原石からダイヤへ

     前回、大学のロゴトレーナーブームの話をしましたが、その頃、店の売上の半分近くがロゴトレーナーになっていました。そこですごく悩んだのが、このまま行くと、『キャラクターショップ』になってしまう、ということです。自分たちがやりたいことはこれではないけれど、やめるとなると店の売上は半分になってしまう、という葛藤があり、決断に非常に迷いました。迷った末に、やはりキャラクターやロゴ商品は徐々に陳列から減らしていくことにしました。当時さまざまな店でこぞって販売されていました。ビームスが最初に手を引いたと記憶していますが、それが結果としては良い方向に向かいました。ブームはじきに過ぎ去り、多くの店が在庫を抱えたと聞きます。何かの商品が大爆発した時というのは、そのブームが去ると、在庫を積んでいた店の経営が、傾いてしまうということを意味するのです。これも、時代の流れを読むことの大切さを物語っていると思います。

     当時「セレクトショップ」という言葉はありませんでしたが、やはり「キャラクターショップ」にはなりたくない、という気持ちが強くありました。マークで売れるとなると、やはり旬を逃すともうなかなか売れなくなる。逆に言えば、手を引いたところが残っているというのはあります。

     しかし、その売上のおかげで、電通を退職する準備ができました。ビームス一本でも給料もらってやっていけるかな、と思えるようになったのです。ビームスが1976年にオープンした時の6.5坪の店は、今の『ビームス 原宿』の左奥にあたりますが、うちの店を含め1階に4軒、小さな店がありました。手前に宝石屋さん、右に小さいカフェ、奥に雑貨屋さん、2階にも小さなサーフショップとアメリカの雑貨の店などが4軒というかたちでしたが、ビームスはそれらのテナント一軒一軒に対して金銭的な交渉をして、店舗を広げていきました。最初に雑貨屋の2.5坪、次に隣の4.5坪という形で、だんだんと拡大していきました。

     2階の4軒を手に入れたことで、店は45坪ほどになりました。当時は、もの凄く広い店ができたな、と思ったものです。2階には新レーベルを展開し、ヨーロッパの最新の、みながまだ知らないようなデザイナーの商品を取り扱いました。しかしこれがもう、恐ろしいくらいにまったく売れませんでした。当然、みな知らないし、見たこともないものです。店のネーミングも間違えたかなと反省しました。『インターナショナルギャラリー ビームス』と名付けたため、みなギャラリーだと勘違いし、眺めて帰っていってしまうのでした。

     しかし今になって考えると、とんでもない商品をそこに並べていたと思います。アルマーニやピンキー&ダイアン、日本のポーター、ポール・スミス。今では世界的に有名なブランドばかりで、そういったものを日本で初めて並べたのが、『インターナショナルギャラリー ビームス』だったのです。でも、誰も知らないから見ていくだけ、というのがスタートでした。

     女性向けレーベル『レイ ビームス』を始めたのは、僕が1983年にビームス一本になった翌年です。「ウィメンズを始めよう」と僕が言ったとき、スタッフ達は反対しました。「ビームスは男の店だ」と言うわけです。さらに、僕は地方出店を提案したのですが、またみなから反対されました。「ビームスは東京の店だ」「東京に来ればいいんです」という形です。せっかくビームス一本になったのに、「自分の存在意義はあるのかな」と感じました。

     また、当時『ビームスF』で初めてのコラボレーション商品として、イギリスの『チャーチ』という靴メーカーと組んで、黒のスウェードのシューズを作りました。

     この商品を作ったとき、まだ広告宣伝する力はあまり無かったため、「靴のインナーの敷き革に『Especially for BEAMS』と入れたらどうだろう?」と社内で提案しました。すると、みなからは「えー、そんなかっこ悪いことはできない」「分かる人に分かればいいんです」といった反応でした。「通に分かればいいんだ」というわけです。「ビームスというのは尖った店で、そんなに宣伝しなくていい」と返されてしまい、ここでもまた「自分が今までやってきたことをここで発揮できるのかな」と思いました。

     そのくらいに、当時のビームス社内では、尖ったことが好きで、分かる人に分かればいいという考えが強かったのです。それは確かに今のビームスにも残っています。ただ、そのままではパイは大きくなりません。僕らは良いものを作り、良いものを選んでいるのだから、やはりきちんと世の中に伝えるべきだろう、と僕は思いました。

     同じように、子供服レーベルやゴルフレーベルを作りたいと言い出したときも、軒並み反対を受け叶いませんでした。それらが実現したのは、それから25年も経ってのことです。みなに子どもができると「子供服レーベルをやりたい」、みながゴルフを始めるようになると「ビームスゴルフをやろう」といった声が、社内であがってきたのです。 ビームスは社内のスタッフのリアルな日常があって初めてプロジェクトがスタートします。そうして、ビームスの多様なレーベルは、さまざまな「流れ」に応じて誕生してきたのです。

    #ビームス#BEAMS#設楽洋#タラちゃん#経営#ファッション業界
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