
「仕事ができる」人間ではなく「仕事が来る」人間に...
6/24(火)
2025年
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設楽 洋 2025/06/20
僕の人生には、4つの転機がありました。
1つめの転機は、小学校低学年の時、テレビが家に届いた日です。僕は、東京生まれの東京育ちですが、やはり当時は地元の小さな世界しか知らなかったのが、テレビからあらゆる情報が入ってきました。ちょうど、今でいうインターネットのような存在です。テレビからは、国内に限らず、海外のあらゆる情報が入ってきます。特にアメリカの情報が入ってくることで得られた視野の広がりは、現代のスマートフォンやSNSの登場時に匹敵するものでした。
アメリカの情報を得られるようになったことの衝撃はずっと続き、中学生の頃には、アメリカの洋楽や洋画に目覚めました。現在のビームスを始める大本のきっかけみたいなものが、ここにあったのかもしれない、と思います。
2つめの転機は、大学受験に失敗して浪人をしたことです。人生初めての挫折でした。それまでは、全く挫折を知らずに能天気に育ちました。たまたま東京教育大学(現・筑波大学)附属校という偏差値の高い学校に通い、その中で小・中・高と進むごとに成績がどんどん下がっていったのですが、「同級生はみな優秀だし、僕も地頭はいいんだろう」と、勝手に思っていたのです。
そしてほとんど勉強もしないまま受験に臨んだ結果は、滑り止めまで含めて全て不合格でした。自分はスポーツでも音楽でも絵でも、努力なしにある程度できたので、「僕は万能なのではないだろうか?」くらいに思っていました。それが受験失敗によって現実を知り、初めての挫折を味わうのですが、これが節目となるのです。
高校を卒業し、1年間の浪人生活に入りました。そこで初めて「努力しなければならない」という現実に、直面します。それまでは、能天気に生きてもある程度何でもうまくいき、「自分は強運だ」と思っていましたが、「やはり努力をしなければ、一定のレベルの場所には行けないのだな」ということを、浪人をして初めて思い知ったのでした。
大学に入学すると、学生運動のあおりで、大学が封鎖され休講となることで、そこでまた“甘い生活”が始まりました。浪人時代は努力していたのが、大学に入学することができ、また甘い方向へと向かっていきました。それも含めて、のちのビームスに繋がるさまざまな経験をすることになるのですが、そうしたチャンスは、浪人時代の努力があったからこそ、掴めたものです。
3つめの転機は、電通に入社して1年目で、ビームスの創業に関わったことです。電通に関しては、滑り込んだような、強運で入ったようなところもあったと思います。
そして、最後の転機は1989年、ビームスの社員が大量に退職し他社に移ったときのことです。
このとき初めて、やはり自分のリーダーとしての人間的魅力がそこまでだったのか、と思い知りました。1、2人の退職ならばまだしも、約30人もの社員が、次々と自分のもとから離れていきました。
リーダーとしての人間的魅力や、人を惹きつける力がなかったのだと痛感しました。そして、残ってくれているスタッフに対して、とても申し訳ない思いがありました。自分自身が辛い、大変だ、ということはもちろんありましたが、それ以上に、やはり残されたスタッフの心を、「どういうふうにまたやる気を上げることができるか」と真剣に考えました。このときの経験が、のちに、リーダーとして一番大切なことは、「モチベーションをデザインする」ことなのだ、という気づきに繋がりました。それまでももちろん、リーダーとして何をすべきか、ということは常に考えてきましたが、このときが、もっとも考えるきっかけとなりました。
おそらく、次にやってくる転機は来年、50周年を迎えた後に引退するときの引き継ぎです。それが、きっと自分のビームスという仕事の中での最後の転機になるのではないかと思います。「何を残し、何を守り、何を新しくしていくか」ということを、いかにして後世へ伝えていくのか。この“転機”に向き合いやり遂げることが、自分に残された使命なのだと思っています。