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2025

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    電通入社と父の会社の危機

    #09電通入社と父の会社の危機

    原石からダイヤへ

     就職指導の先生から100%無理だと言われた電通への入社。それでも僕は一か八かの面接に挑みました。当時、まだ父はパッケージのメーカーを経営していたので、父としては、長男の僕に後を継がせたかったようです。けれど僕は、クリエイティブな仕事――テレビのコマーシャルやCMプランナーといった仕事をしたかった。そして電通の試験を受け、なんとか入社することができたのです。

     そのような経緯もあり、電通に入社したときは、テレビ局やクリエイティブ、コピーライター、CMプランナーといった職種に希望を出しました。しかし結果はというと、SP(セールスプロモーション)局のイベント事業部の配属になりました。ここは、大規模なイベントではモーターショーや万博、ボートショーなど、中小規模では百貨店の屋上のウルトラマンショーといったイベントを運営する部署です。新人の頃は、大がかりなイベントは先輩の手伝いに入り、自分のメインの仕事は、小規模イベントをあちこちで開催するといったものでした。

     余談ですが、電通に入社する直前、オイルショックが起こりました。その影響で、僕が入社した年は、例年の募集人数の半分の数しか採用枠がありませんでした。何とかすべり込めたのでよかったのですが、僕は「入社できなかったら就職浪人しよう」と思っておりました。ところが翌年、電通は初めて、新卒採用を見送ったのです。もしそうなっていたら、自分も人生どうなっていただろう、と思うことがあります。

     また、オイルショックにより、一つの転機が訪れました。父の本業であるパッケージメーカー・新光紙器株式会社(現・新光株式会社)が、いわゆる構造不況業種(産業構造、需要構造、経済環境などの構造的な問題から生じる不況が続く業種)となったのです。オイルショックの時は、皆がトイレットペーパーを奪い合うように購入する時代で、当然のごとく紙の値段も急激に高騰しました。父のビジネスは、ダンボールの原材料を購入し、箱を作って売るものだったため、仕入れの原材料費がものすごく上がってしまったわけです。

     父の会社が取り扱っていた箱というのは、輸送箱でした。ダンボール箱と言っても、例えばお菓子の箱のような化粧箱は別ですが、輸送するだけの箱は付加価値があるわけではありません。どのメーカーから買っても同じ箱という点で、食品メーカーなどのクライアントからは、値段を叩かれてしまうわけです。

     原材料は高騰し、値段は叩かれる。「これは将来的には非常に厳しい」という話になりました。そして父が、「新しく事業を多角化しなければ、この先やっていけなくなる。次は付加価値のある商売をしよう」と言い始めました。単純に材料を仕入れ、物を作って値段を叩かれ、一銭二銭の勝負をするというものではないビジネスとは何かを考えました。その結果、ファッションやライフスタイルが好きだった僕を含めて、「アメリカの生活を売る店」という構想へと行き着いたのです。

    #ビームス#BEAMS#設楽洋#タラちゃん#経営#ファッション業界
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