
環境をシャッフルすることで開く、子どもの可能性
9/13(土)
2025年
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高濱 正伸 2025/08/24
私がサマースクールをはじめとする野外体験活動に情熱を注ぎ続けるのには、明確な理由があります。
まず、そもそも「なぜ不幸せな大人が多いのか」という問題意識を追究した結果、考える力が育っていないのではという結論に行き着きました。好きや嫌いの感情はあるが、自分の人生について、しっかり考えていないので困ってしまっている。何のために仕事をするのか、自分はどうしていきたいか、ゆっくり考えて『自分なりの答え=哲学』を出せばいいのだが、それをしてきていない。偏差値が高い学校がいい、初任給が高い会社や待遇のいい会社がいい、といった外付けの評価基準で人生の選択をしてしまい、不幸せになっている。自分の心を一番に考えて「これが好き、ワクワクする、充実感がある」という道を、自分で考えて選べれば、幸せに生きられるはずなのに。だからこそ、子どもたちの「考える力」「思考力」を、その根っこから育みたいという強い想いを持っていました。
では、その「考える力」とは何か、については、予備校で教えていた頃に気がつきました。算数や数学で、生徒の点数を大きく左右するものは何か。それは、知識の量ではありません。たった一本の「補助線」がひらめくかどうか。この差が、時に30点もの違いを生むのです。バラバラの知識を100から150に増やすのは頑張ればできます。しかし、補助線が浮かぶかどうか、空間認識力で裏側が想像できるか、断面図が頭に浮かぶか、論理的に複雑な状況を粘り強く一つのバグもなく考えられるか。こういった「思考力」こそが、できない、壁になるということが分かりました。
当時、計算力の塾などはあっても、この「思考力」そのものを伸ばそうという教育は、ほとんどありませんでした。だからこそ、ここにチャンスがあると考え、「なぞぺー」のような思考力を問う教材を開発しました。すると、現場で教えていく中で、思考力の成長には小学校3年生あたりに「臨界期」があることも分かってきました。1年生なら誰もが楽しんで『ああ、この子は今伸びてる』と実感できる立体の問題も、5年生にもなると教えていて頭打ち感があり、本人はただ難しく感じてしまうのです。
しかし、教材だけでは足りません。「補助線をひらめく力」そのものを、どうすれば生み出せるのか。そう真剣に考えた時、脳科学における「大好きで集中して反復したことは伸びる」という原則に立ち返りました。そして、「大好きで集中して反復した状態で、補助線が浮かぶ」というシチュエーションに最も当てはまるものこそが、「外遊び」であることに気づいたのです。
自分の子ども時代を振り返っても、感覚は同じでした。仲間と「あそこに秘密基地を作ろう」と知恵を絞ったり、サッカーでパスコースを読んで走り込んだり。ボール遊びは、まさに補助線の連続です。外遊びの中には、空間認識能力、イメージする力、そして仲間と協力してやり遂げる力など、思考力のあらゆる要素が詰まっています。
私は、思考力を大きく2つの力に分けて考えています。一つは、人の気持ちや本質、要素、課題や解決策といった、目に見えないものが浮かぶ「見える力」。もう一つは、それを最後までやり切る「詰める力」です。外遊びは、この両方を同時に、しかも圧倒的な熱中の中で育んでくれるのです。
ところが、現代の子どもたちが置かれた環境はどうでしょうか。ゲームや動画に時間を奪われ、体を動かす機会は減りました。ようやく公園に出ても、「ボール遊び禁止」「大声を出さないこと」「5時には帰りましょう」といった看板が並び、子どもらしく思い切り遊ぶことすらままなりません。自分の体の周り360度にアンテナをはりめぐらせて「あちらからボールが来る」など五感で感じることが失われています。「川でダムを作ろう」と、今ないものを構想してゼロ→イチで作り切る経験も減っているのではないでしょうか。
子どもが、大声を出して暴れ回って、自由に遊ぶ時にこそ、その力はいちばん伸びる。その本質的な学びの場が失われているのなら、私たちがその場所を提供するしかない。そう決意し、たどり着いたのが広大な「自然」の中での野外体験でした。
30年以上、子どもたちを野外体験に連れて行っていますが、ある一定の確率で、発達障害、ADHD、自閉症スペクトラムといった特性をもつ子がいます。これは、確率論的に当たり前なのですが、教室では集団行動が難しいと言われる子どもたちも、自然の中ではなんの問題もありません。
自然は、計り知れないほどの恩恵を子どもたちに与えてくれます。まず、教室というツルツルで直線の多い空間では落ち着きがなかったり、発達に特性があったりする子が、自然の中では驚くほど生き生きと過ごせるようになります。これは、人間が何万年もの間、森と共に生きてきた記憶が、その心と体を解放してくれるからかもしれません。
また、自然の中では常に「工夫する力」が求められます。「あそこの丸太を持ってきて、この上に乗せればちょうど同じ高さになるんじゃないか」といったことを、ずっとやっているのです。重さや安定性を考え、試行錯誤を繰り返す。この絶え間ない工夫が、肉体感覚を伴う生きる力を育みます。
そして何より、本物の「多様性」に触れることができます。記号として「葉っぱ」を知っているだけの子どもと、山の中でずっと遊んでいて多くの本物の葉っぱを見て知っている子どもでは、全く違います。木でも、全然違います。チクチクしたり、濡れていたり、硬かったり、柔らかかったり、大きかったり、小さかったり、いろんなものがあります。1本の木の葉っぱだけでも、非常に多様です。1枚1枚、全て違います。それが「本当の自然のあり様だ」と知っているのと、記号としての葉っぱを知っているのは経験としてまったく異なるものです。
もちろん、自然の中での活動にはリスクが伴います。だからこそ、学校や行政は「川で遊んではいけません」という立て札を立てるのが仕事になっています。しかし、本当に子どもたちの成長を願うのなら、誰か大人がそのリスクを引き受け、責任を持って本物の体験を届けなければならない。私がこの活動を始めた32年前、その覚悟を持つ大人はほとんどいませんでした。
他塾がこの人気に便乗して始めても、少しの怪我でクレームが来て1、2年で撤退していく。その中で、私たちはこの活動をやり続けてきました。それは、社員一人ひとりの血の滲むような努力の集積です。
以前、重度の自閉症の子どもたちを集めた森の中のフリースクールで、ある子が木の切り株を「最後まで削る」と決め、朝から晩まで没頭している姿を見たことがあります。その一心不乱な姿に、私は深く感動しました。この「没頭」の体験は、ひと振りひと振りに込められた工夫や、やり切った達成感と共に、彼の人生の大きな糧となるはずです。例えば、ものづくりや研究など、深掘りして集中、没頭するような仕事に役立つかもしれません。
子どもの力を本当に伸ばすものは何か。その答えは、いつも自然の中にあります。これからも、子どもたちが本来持っている力を最大限に引き出すため、私たちはフィールドに立ち続けたいと考えています。