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2025

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    幼少期――焼酎のにおいと、外遊びで過ごした日々

    #02幼少期――焼酎のにおいと、外遊びで過ごした日々

    原石からダイヤへ

    私は熊本県の天草市に生まれ、人吉市で育ちました。出産のために母が天草の実家に戻っていて、産婆さんに取り上げてもらったと聞いています。祖父は男の子の誕生を大変喜び、産湯に浸かる私の手が大きく開いているのを見て、「この子は大物になるぞ!」と言ったそうです。

    こうした、「あなたが生まれた時はこうだったよ」という家族から語られるエピソードは、その人間の自己イメージを形作る上で、意外なほど大きな影響力を持つことがあります。私の場合も、折に触れてこの祖父の一言が心の支えになっていたのかもしれません。実際に、能力はほぼ同じ人でも、より自己像の強い方が勝つことがあったりします。

    父は人吉市の総合病院に勤める内科医で、私は病院の社宅で育ちました。冬の人吉は盆地特有の深い霧に包まれ、10メートル先も見えないほどです。そんな霧の中を、子どもたちみんなで声を上げながら、毎朝1時間近くかけて小学校まで走って通っていました。

    人吉は「球磨(くま)焼酎」という米焼酎で有名な町で、通学路にはいくつもの酒蔵が並んでいました。お酒好きの大人にとっては心惹かれる風景でしょうが、子ども心には独特の発酵臭が苦手でした。そのにおいの中で、球磨川を眺めながら走った光景が今でも記憶に残っています。

    小学校時代は、外で遊ぶことに明け暮れる毎日でした。病院に勤める大工さんが作ってくれた虫かごを手に、毎朝のように山へクワガタを捕りに行きます。蜂がいそうな場所はレンジャー部隊のように身をかがめて進み、目当ての木を力一杯蹴ると、クワガタが「タタタタッ」と音を立てて、落ちてくる。それを夢中で捕まえるのです。午前中に虫捕りを終えると、午後は川へ向かいます。川のほとりの遊び場で、日が暮れるまで過ごし、暗くなると家路につく。まさに、毎日が夏休みのような日々でした。

    小学5年生くらいになると地域のガキ大将になり、年下の子どもたちを束ねて遊んでいたのですが、その一方で、学校生活には少しストレスを感じていました。特に小学校低学年の頃は、学校でうまく話すことができなかったのです。いわゆる場面緘黙(ばめんかんもく:普段は話せるのに、学校や職場などでは黙ってしまう症状)という状態で、何かを言おうとして言葉に詰まると、もう黙り込んでしまう。ただ、じっと空を見つめているような、内気で弱気な男の子でした。

    なぜそうなってしまったのか。今、教育者として振り返ると、はっきりとわかります。その原因は家庭環境にありました。私は三人きょうだいの真ん中で、しっかり者の姉と、父に溺愛される弟がいました。小さくて可愛らしいということもあったでしょうが、弟は実際にハンサムでした。私は、いつからか「どうせお父さんは弟しか可愛くないんだ」と拗(す)ねてしまったのです。

    この時の拗ねた気持ち――「みんなと一緒のことなんかやんねえもん」という心が、私の人生の一つの原型になっているのかもしれません。なぜ自分は「みんなと一緒」を良しとせず、少し違う道を歩もうとするのか。そのルーツを辿ると、この時の気持ちに行き着くような気がします。

    父と一緒にお風呂に入ってもらった記憶は一度もありません。いつも一緒に入っている弟が、父の作るタバコの輪っかにキャッキャと笑いながら指を通している。その様子を、私はただ黙って横で見ているだけでした。何度か「お父ちゃんは、まあちゃんのことなんか、可愛くないんやろ!」と叫んで、お風呂場に駆け込んで泣いたこともあります。

    母親からは絶対的な愛情を注いでもらえたと確信していますが、父に対しては「私のことをあまり好きではないのかもしれない」と感じながら過ごしていました。満身の愛をもらっている自信がなかった。心の奥に、そんな弱さを抱えた子どもだったのです。

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