
幼児教育体験と引きこもり問題から生まれた塾構想
9/12(金)
2025年
SHARE
高濱 正伸 2025/08/16
自分らしくない、「無理をして褒められる道」に足を踏み入れた結果、私は自分自身を追い込み、心に大きな穴を開けてしまいました。楽しくも何ともないのに10か国語を勉強している状態でした。例えばイタリア語の授業では、「この学生は明らかに病んでいる」と察した教授が、私だけを指名せずに飛ばしていくのが分かりました。
「自分は壊れてしまった」と感じながらも、しばらくはそれでも頑張ろうと9つか10の単位を取りました。しかし、それも限界でした。ついに心がパンクし、本格的に壊れてしまったのです。そこからは、今でいう「パニック障害」との闘いでした。電車に乗るのが怖くなり、狭い場所に行くと息が苦しくなる。本当に大変な時期でした。
当時はまだパニック障害という病名がそれほど浸透しておらず、相談に行っても「ノイローゼの一種だね」と言われるだけ。「頑張りすぎるとなるんだよ」と診断されても、具体的な治療法は誰も教えてくれませんでした。
そこで私は、自分でも大したものだと思うのですが、我流でこの病気を治そうと決意しました。様々なことを試した末に行き着いた結論は、「体を徹底的に疲れさせた日は、深く眠れる」ということでした。1日に5km、10km、20kmと無我夢中で走り、時には水泳で体をくたくたにしました。その甲斐あって症状は徐々に回復していきましたが、当時の無理がたたってか、今でも膝が痛むことがあります。
発症してからの2年間はほとんど何も手につきませんでしたが、そんな私に大きな転機が訪れます。塾で子どもたちを教え始めたところ、不思議なことに、子どもたちの前に立っているときだけは、あの恐怖感が湧いてこないことに気づいたのです。まるで症状そのものを忘れてしまうかのようでした。
「教育には、こんな力もあるのか」と感じた私は、他のアルバイトをすべて辞め、塾講師の仕事に専念するようになりました。この決断が、私を救ってくれたのです。
最初に担当したのは、中目黒にある、慶應幼稚舎出身の高校生専門の塾でした。男の子ばかりでしたが、彼らはみんな純粋で邪気がなく、本当に可愛らしかったのです。数学も国語も、私が教えると驚くほどできるようになる。生徒に教えるために、大手予備校に紛れ込んで有名講師の授業で教え方を学ぶなど、予習復習は欠かしませんでしたが、教え子たちと一緒にすごす時間は何よりの喜びでした。自分自身の学力も飛躍的に伸び、「教育とは、これほど楽しいものなのか」と、心の底から感じたのです。
教育の喜びに触れることで、病んでいた私自身の魂が救われていくのを感じました。「教育は最高だ。やはり、私には子ども相手の職業しかない」。そう確信するのに、時間はかかりませんでした。
塾講師を始めて何年目かで、個別指導を頼まれました。「今度はちょっと厄介な子が来るんだよ」と聞かされてやってきたのは、長期不登校の中学生でした。その子は、中学1年で留年し、友人のいない環境になったことがきっかけで、学校に行けなくなったとのことでした。
その子と初めて会ったとき、私は誰に教わるでもなく、直感的にこう思いました。「この子は心を病んでいるから、何かを教えるんじゃなくて、もっと人との温かい繋がりを作らなくては」。彼がちょっとした冗談を言えば「うわー、はははは!」と大げさに喜んでみせたり、とにかく彼をひたすら笑わせることに徹しました。あっという間に1時間が過ぎ、授業は終わります。
すると次の授業にも、彼は喜んで来てくれるようになりました。「高濱先生のところだったら行くわー」と。関係性ができると、彼は勉強にも少しずつ興味を示し始め、ついには再び学校へ通えるようになったのです。「私のもとに来れば、子どもたちは元気を取り戻すんだ」。これは、私にとって大きな成功体験となりました。
この話には後日談があります。3年後、彼が高校生になった頃、私は予備校で教えるためにその塾を辞めていました。すると突然、彼のお母様から連絡があったのです。「探しました。塾では住所を教えてくれないから……。息子がまた学校に行けなくなってしまって。他の家庭教師の先生を同じようにつけたのですが、みんなダメなんです。『高濱先生じゃないとダメだ』と息子が言うのです」と訴えかけられました。
そう言われては、行かないわけにはいきません。再び彼の家庭教師に戻ると、彼は3年前と同じようにブルブルと萎縮していました。私はあの頃と全く同じように、ひたすら彼を笑わせ、関係性を作っていきました。すると彼は、またしっかりと学校に戻ることができたのです。この経験は、心を病んだ子どもたちへのアプローチに対する大きな自信に繋がりました。
ちなみに、私が最初に教えていた慶應幼稚舎出身の高校生専門の塾の教え子たちは、今では名の知れた社長になるなど活躍しています。その中の一人、日本交通の事業再生を成し遂げたKくんは、私が初めて個人で教えた生徒でした。彼の場合は、私が何かをしたというより、もともと素直で優秀だったのですが。授業中はただただ笑わせ続け、彼を特別扱いせず、一人の人間として対等に接していただけです。
多くの子どもたちとの出会いと、教育がもたらしてくれた喜びが、私のパニック障害を救い、その後の人生の礎を築いてくれたのです。