
「破天荒な研究者」北里柴三郎——ビジネスパーソン...
9/30(火)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/29
五千円札の顔に選ばれた津田梅子。津田塾大学を作った人として知っている方も多いかもしれません。しかし、そこに至るまでの生い立ちや、女性への教育が今のように当たり前ではなかった時代に、どのようにその道を切り拓いたかを知る人は少ないでしょう。「自分の信じた道を進む」ことが、どのように時代を変えたのか、梅子の生い立ちと功績を通して紹介していきます。
1864年、江戸の牛込で梅子は生まれました。父の津田仙は、幕府の使節としてアメリカに行き、明治維新の後は北海道開拓使として働きました。仙にとって、「女性も教育を受けて社会に貢献すべきだ」という考え方は自然なもので、娘にこそ新しい時代を生きてほしいと強く願っていました。
そのような中、岩倉使節団による「女子留学生募集」の話が届きます。10年という長い留学、しかも費用はすべて政府が出してくれるものでした。しかし、「娘の結婚が遅れる」「異国に行かせるのは不安」という理由から、なかなか応募者は現れませんでした。
仙は最初に長女に声をかけましたが、本人から強く反対されてしまいます。そこで次女の梅子に声をかけると、6歳の梅子は「私が行きたい」と手を挙げました。
異国での生活と使命の自覚
1871年の冬、梅子は太平洋を渡り、アメリカ・ワシントン郊外のランマン夫妻の家で暮らし始めました。言葉も文化も違う中で、ゼロからのスタートでした。
しかし、梅子は驚くほど早く新しい環境に慣れていきました。ランマン夫妻は、実の娘のように梅子を大切にし、教育を受けさせました。1873年の春、梅子は自分から「洗礼を受けたい」と申し出ます。夫妻は驚きましたが、8歳の少女の自立心と意思の強さに感動し、大人と同じように洗礼を受けさせたそうです。
学校で学びながら、アメリカの女性たちが自信を持って生きている姿を見て、梅子は「女性が自立することが大切だ」と実感します。そして、聖書を通して道徳を学ぶ彼女たちを見て、「日本の女性もこうあるべきだ」という思いが芽生えました。異国での経験が、梅子の考え方を大きく変えたのです。
1882年、17歳になった梅子は帰国します。しかし、そこには厳しい現実が待っていました。男子留学生は良い仕事を約束される一方で、女子留学生には働く場所がありませんでした。しかも長い海外生活で、日本語もあまり話せなくなっていました。
ランマン夫人への手紙には、「日本の女性は自分を高めようとせず、社会も女性に教養を求めていない」と怒りと失望が書かれていましたが、それでも梅子の使命感は消えませんでした。
梅子が最初についた仕事は、華族女学校の英語教師でした。しかし、そこでも「勉強はほどほどでいい」「いずれ結婚する娘に高い教育は必要ない」という空気がありました。生徒たちが熱心に学ばない姿を見るたびに、「本当に女性が自立するには、今の常識を超えた教育が必要だ」と強く感じました。
現状に満足できない中で、梅子はただ社会を嘆くのではなく、「自分が道を拓く」と決意します。安定した教師の仕事や持ち込まれる縁談も断り、「本気で学問に打ち込める場所」を求めて、二度目のアメリカ留学を決めました。
1889年、梅子はフィラデルフィア郊外のブリンマー大学に入学します。ブリンマー大学は、男性と同じ内容を女性にも学ばせる先進的な大学でした。梅子が選んだのは生物学で、恩師モーガン教授のもと、カエルの卵の研究に熱中し、イギリスの学術誌に論文を発表します。これは日本人女性として初めての自然科学分野での論文発表でした。
大学は梅子にアメリカで研究を続けることを勧めました。もしこの道を選んでいたら、日本で最初の女性ノーベル賞受賞者になっていたかもしれません。しかし、梅子は「自分の使命は女性教育だ」と信じて、帰国を決めました。夢を叶えるために、安定や名誉よりも社会のために動くことを選んだのです。
1900年、東京・麹町に「女子英学塾」(今の津田塾大学)がついにできました。生徒はわずか10人。梅子や、アメリカから来てくれた友人アリス・ベーコンたち講師は、ほとんど無給で教えていました。それでも、小さな教室には未来を信じる若い女性たちの真剣なまなざしがありました。
開校式で梅子は次のように話しました。
「真の教育には、教師の熱心と学生の研究心が大切である。学生の個性に応じた指導のためには少人数教育が望ましい。さらに人間として女性としてall-roundでなければならない。」
社会の壁は高く、簡単な道のりではありませんでした。しかし、「女性が自立し、社会に役立つための教育の場」は徐々に広がり、支援する人も増えてきます。
例えば、関東大震災で校舎が焼けてしまった時も、渋沢栄一など多くの支援者が助けてくれました。新渡戸稲造は「塾の伯父」と名乗り、先生が足りない時には自分で教壇に立ちました。紙幣の顔になった人たちが梅子のもとに集まったのは、彼女の強い思いが人を動かし、共感を呼んだからです。
梅子は「女性の権利」だけを強く主張したわけではありません。「自分を高め、社会に必要とされる人になる」ことを大切にしました。周りが「女性に勉強はいらない」と言っても、「よりよい社会を作るためには、誰もが成長をあきらめてはいけない」と信じていました。
そして、梅子は「自分にできることは何か」を考え、女性教育への信念を貫き、周りの人の協力を得られる誠実さを持っていました。
自分のいる環境や会社、業界に「このままでいいのか?」という疑問があるなら、それが改革の始まりです。梅子のように「まず自分が学び、行動する」ことで、周りも少しずつ変わっていきます。
6歳の梅子が留学へと踏み出した一歩から、日本の未来は大きく変わりました。あなたの一歩も、未来を変える力になるはずです。そのように信じて、勇気をもって一歩を踏み出してみましょう。