
「私は神と人類に対して、自分の仕事をきちんとやり...
10/17(金)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/16
中国近代史において、最も多くの人々に尊敬され、同時に毀誉褒貶も受けてきた男、孫文。彼の生涯は、挫折と希望、理想と現実のせめぎ合いの連続でした。
なぜ彼は、最期まで「革命」は未完成だと言い残したのか。その歩みをたどることで、私たちは変革者の本質と、挑戦がもたらす意味を学ぶことができます。
1866年、孫文は中国・広東省の農村に生まれました。幼い頃から知的好奇心旺盛だった彼は、14歳でハワイ在住の兄を頼り、海を渡ります。そこで体験したアメリカ流の「民主主義」に強い衝撃と憧れを抱き、やがて「中国を真に救うには、根本から国を変えなければならない」と心に誓いました。
19歳で中国に戻った彼は、香港で医師の資格を取得し、貧しい庶民を助ける日々を送りました。しかし、「病を治すのも大切だが、“国”そのものの病を治さねばならない」という思いが、彼を政治の世界へと駆り立てます。
「医師が個人の命を救うのなら、私は中国という大きな患者を救いたい」
これが、孫文の原点です。
1894年、孫文はハワイで「興中会」を設立します。
清朝の圧政と外国勢力による半植民地化が進む中国に危機感を覚えた彼は、国内外の華僑を巻き込み、革命資金の調達や組織化に奔走しました。
翌年、広州での蜂起を画策しますが、計画は露見し失敗。命を狙われ、日本へ亡命します。そこから孫文の逃亡生活が始まります。
日本の横浜、アメリカ、ロンドン――亡命先を転々としながらも、彼の名は徐々に世界へ知れ渡るようになります。特にロンドンでは清国公使館に監禁され、国際的な支援で救出された経験が彼の知名度を一気に高めました。
日本で彼は宮崎滔天や梅屋庄吉ら志を同じくする支援者と出会い、資金や物資の提供を受けて革命運動を続けます。また犬養毅など当時の日本の政治家にも働きかけ、中国の現状を訴えました。
1905年、孫文は東京で「中国同盟会」を結成します。ここで掲げたのが、彼の政治理念の集大成ともいえる「三民主義」でした。
この三つの柱は、長く続いた封建体制と列強による圧迫から脱却し、新たな国づくりの道標となったのです。
しかし、革命の道のりは困難を極めました。蜂起は幾度となく失敗し、組織の分裂や資金不足にも苦しみます。
それでも孫文は「革命なくして国家の再生なし」と信じ、世界各地で支援を訴え続けました。
1911年、“ついに時代が動きます”。
鉄道国有化政策に反発した民衆と新軍が武昌で蜂起。その動きは一気に全国へと波及し、各地の省が次々と清朝から独立を宣言しました。
アメリカを訪れていた孫文は、この報を聞くと「わたしは無一文である。持ち帰ったのは革命精神である」と言い放ち、急ぎ帰国。
革命派が一枚岩とならず苦しんでいた中、孫文の帰国は大きな求心力となり、1912年1月1日、南京で中華民国の成立が宣言されます。孫文は臨時大総統に選ばれ、アジアで初めての共和国が誕生した瞬間でした。
「アジアの目覚めはここから始まる」
しかし、現実は理想通りには進みません。
新政府は財政も軍事も弱体で、政権基盤は脆弱でした。北方には依然として清朝の勢力が残り、事態の安定を図るため、孫文は清朝実力者・袁世凱に総統の座を譲ります。
袁世凱は皇帝退位を実現させるものの、その後は独裁色を強め、民権主義とは真逆の道を歩みます。孫文は「第二革命」を唱えて抵抗しますが、逆に弾圧を受け、再び日本へ亡命。
1914年には東京で「中華革命党」を創設し、秘密結社として活動を続けました。この時期、孫文は日本の実業家・梅屋庄吉邸で宋慶齢と結婚。公私ともに支援を受け、再起を期します。
しかし、軍閥の対立や外国勢力の干渉に中国は翻弄され、革命の理想は遠のくばかりでした。
挫折を重ねた孫文は、革命の段階論――「三段階革命論」を練り上げます。
「中国の民衆にはまだ“政治の訓練”が必要だ」と考え、いきなり西洋型民主主義を導入するのではなく、段階的な発展を目指すという現実的なビジョンを示しました。この考え方は、のちの中国国民党の国家運営モデルにも色濃く影響を与えます。
1919年、ヴェルサイユ条約で中国の主権が軽視されたことに端を発し、全国で五・四運動が巻き起こります。民族主義の高まりの中、孫文は「秘密結社」から「大衆政党」への転換を決意。中国国民党を結成し、広く民衆の支持を集める新たな運動を始めます。
この時期、世界ではロシア革命が成功し、ソ連が誕生。帝国主義を敵とする孫文は、ソ連と接近し、「連ソ・容共・扶助工農」という新しい三大政策を打ち出します。
1924年、孫文は中国共産党との第一次国共合作を実現。かつて敵対していた勢力とも手を握り、中国統一と不平等条約の撤廃、民主政治の実現を目指す“国民革命”の最終段階へと突き進みます。
1924年、孫文は北京へ向かう途中、日本に立ち寄り、神戸で「大アジア主義」演説を行います。彼は「アジアの未来は、覇道(武力)ではなく王道(道徳と理念)によって切り拓くべきだ」と訴え、日本には「覇道」ではなく「王道」を歩むべきだと語りかけました。
この演説は、当時の日本人知識層にも大きな感銘を与えました。日中双方の友好と共闘の理想が、孫文の言葉に凝縮されています。
1925年3月12日、肝臓癌に倒れた孫文は、最期に「革命未だ成らず」と遺言を残してこの世を去ります。享年59歳。
この言葉は、単なる敗北宣言ではありませんでした。むしろ、「理想の追求は終わらない」「変革の歩みは、今を生きる人々に託されている」という強いメッセージだったのです。
孫文の「革命未だならず」は、今を生きる私たちへの問いかけでもあります。
変革の道は決して一人で完結するものではなく、理想を掲げる者から、次々とバトンを受け継ぐことでしか成し遂げられない。
彼の生涯から学べるのは、「諦めない情熱」と「現実を見据えた柔軟性」、そして「未来への責任感」です。時代がどれほど変わろうとも、その精神は私たちの行動指針となるはずです。