
土用の丑の日はうなぎを食べることを世に広めた天才...
10/16(木)
2025年
SHARE
ビジョナリー編集部 2025/10/16
レオナルド・ダ・ヴィンチ。その名を知らない人はほとんどいないはずです。『モナ・リザ』や『最後の晩餐』といった傑作を生んだ偉大な芸術家。しかし、彼の生涯には「天才」という言葉では語り尽くせない、苦悩と執念、そして自己への厳しさが刻まれています。
「私は神と人類に対して、自分の仕事をきちんとやり遂げなかったことを後悔している。」
この言葉を遺し、世を去ったダ・ヴィンチの人生を辿ってみましょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれたのは1452年、イタリア・トスカーナ地方の小さな村ヴィンチ。彼の名前が「ダ・ヴィンチ(ヴィンチ村の)」と呼ばれる由来です。父は公証人ピエロ、母は奴隷出身の女性カテリーナ。私生児として生まれたため、当時の社会では正規の教育を受けることが難しく、ラテン語にも苦手意識を持ちながら育ちました。
しかし、彼の幼少期はアルノ川のほとりで自然に親しみ、動物や植物、そして水や空の動きに果てしない好奇心を向けていたと伝えられています。
「私は経験の弟子である」
そう自称したダ・ヴィンチは、自然そのものを教師とし、観察し続けることを自らの基本姿勢としました。この姿勢は、彼の生涯を貫く原動力となっていきます。
15歳のとき、ダ・ヴィンチはフィレンツェの著名な工房、アンドレア・デル・ヴェロッキオの門を叩きます。ここで彼は絵画、彫刻、建築、工芸と幅広い技術を身につけました。 彼が師の作品『キリストの洗礼』で天使を描いたとき、そのあまりの巧みさにヴェロッキオは「自分はもはや筆を取るまい」と言ったという逸話が残されています。
しかし、順風満帆とはいきません。若き日のダ・ヴィンチは「遅筆で未完成作が多い」「依頼主の指示を無視する」など、職人としては致命的ともいえる欠点を抱えていました。システィーナ礼拝堂の壁画制作プロジェクトで、先輩のボッティチェリが選ばれるなか、自分は声がかからず、「この男は大バカ者だ……言ってくれ、サンドロ、君はどう思う? 本当のことを正直に言おう。僕は成功しなかったのだ」とノートに綴っています。
ですが、ダ・ヴィンチはこの挫折を受け入れ、自己卑下に沈むのではなく、「自分の特性を客観視し、長所に磨きをかける」方向へと舵を切ります。
1482年、30歳を迎えたダ・ヴィンチは、フィレンツェを離れミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァの宮廷へと向かいます。ここで彼は絵画や彫刻だけでなく、軍事技術者、建築家、都市計画者、水利工学者、音楽家など、幅広い顔を持つことになります。
「鉄は手入れをしないと錆びる。才能も使わなければダメになる」
この言葉からも分かるように、彼は“使うことで磨かれる才能”を信じていました。
ミラノ時代最大の傑作が、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれた『最後の晩餐』です。縦4.2m×横9.1mの巨大な壁画に、イエスと12使徒の緊張感が遠近法を駆使して表現されています。しかし、彼の“納得するまで仕上げたい”という姿勢が「遅筆」「未完成」という烙印を押される一因ともなりました。
この時期、ダ・ヴィンチは騎馬像や都市計画、さまざまな発明にも挑みます。飛行装置や潜水艦、戦車など、当時としては夢物語のような構想も、克明なスケッチと共に手稿に記録されています。
1499年、イタリア戦争の混乱の中、ミラノ公国が崩壊。ダ・ヴィンチはフランス軍の侵攻を受け、製作中だった巨大な騎馬像の青銅は大砲に転用され、完成間近の原型はフランス兵の標的として破壊されてしまいました。
彼はまたもや放浪の身となり、フィレンツェやローマ、ヴェネツィアなど各地を転々とします。時にはチェーザレ・ボルジアの軍事責任者として、運河や都市防衛の計画にも携わりました。
この流浪の時代も、ダ・ヴィンチは「続けること」の大切さを語っています。
「石は、火切り鉄に叩かれて苦しむが、耐え続ければ素晴らしい火が生まれる。学びの道も同じだ」
あきらめず探究を続けることで、やがて世に新しい価値を生み出す。その信念が、彼を後の時代へとつなげていきます。
1503年、フィレンツェ共和国は市庁舎大広間の壁画制作をダ・ヴィンチに依頼します。同時に、もう一方の壁にミケランジェロが起用され、二人の巨匠による“夢の競演”が実現します。
しかし、ダ・ヴィンチは新たな技法への挑戦に時間をかけ、なかなか完成に至りませんでした。ミケランジェロも途中でローマに呼ばれ、結局どちらの作品も未完のまま終わりました。
この頃からダ・ヴィンチは『モナ・リザ』の制作を始めます。完成まで約4年を要し、それ以降も彼は生涯この絵を手放さず、筆を加え続けました。
「人はみな、我流で何かを作って自分が上手だと思いがち。だが本当に大切なのは、観察し、熟考し、最も優れたものを選び抜くこと」
この言葉通り、彼は自分の芸術に対して妥協を許しませんでした。
ダ・ヴィンチは晩年、フランス王フランソワ1世に招かれ、アンボワーズ郊外のクルー城で過ごします。王の寵愛を受けながら、宮廷の祝典の演出、運河工事の設計、そして『モナ・リザ』を携えて新しい土地へと渡りました。
クルー城での生活は平穏で、彼は科学研究や弟子たちへの教育に多くの時間を費やしました。しかし、そこでも「未完成のまま」の作品や研究が数多く残りました。
1519年、67歳でその生涯を閉じる直前、ダ・ヴィンチはこう語ったといわれています。
「私は神と人類に対して、自分の仕事をきちんとやり遂げなかったことを後悔している。」
その言葉には、自分に厳しく、理想の高さゆえに満足することのなかった彼の本質が表れています。
一方で、「私は続けるだろう」とノートに記した言葉も残されており、死の直前まで“学び続けること・表現し続けること”を人生の中心に据えていたことが伺えます。
ダ・ヴィンチの“万能性”は、なぜ実現したのでしょうか。
一般的に「生まれながらの天才」と片付けられがちですが、彼の背景には、ルネサンス人の理想「万能であれ」という価値観がありました。立派な画家になるためには、幾何学、解剖学、文学、音楽、建築、科学、哲学——あらゆる分野に通じることが求められていたのです。
ダ・ヴィンチは積極的に多分野の知識を吸収していきました。この“貪欲な好奇心”と“素直さ”、そして“自分の信じる道を突き詰める頑固さ”が、ダ・ヴィンチを唯一無二の存在へと押し上げたのです。
ダ・ヴィンチは多くの作品や研究を「未完成」のまま遺しました。
しかし、その“未完成”こそが、彼の生涯の本質を物語っています。真実を探求し続け、どこまでも満足せず、常に問い続ける——その姿勢が、500年を経てもなお世界中の人々を魅了し続ける理由にほかなりません。
彼は「私は成功しなかった」と語りながらも、唯一無二の“続ける人”であり続けました。
「私は神と人類に対して、自分の仕事をきちんとやり遂げなかったことを後悔している。」
この遺言を聞いて、多くの人は驚きを覚えるかもしれません。
天才と呼ばれたダ・ヴィンチは、最後まで自分に満足することはありませんでした。その“終わりなき探究心”と“未完成の美学”は、今もなお新たなクリエイターや研究者、イノベーターたちに勇気を与え続けています。
「自分はまだまだだ」と感じる瞬間があれば、ダ・ヴィンチの言葉を思い出してみてください。「続けること」「観察すること」「問い続けること」——その一歩一歩が、やがて歴史を動かす原動力になるのです。
ダ・ヴィンチの人生は、未完成のままでも前進し続けることの価値を、私たちに静かに語りかけているのです。