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2025

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    土用の丑の日はうなぎを食べることを世に広めた天才蘭学者――平賀源内

    土用の丑の日はうなぎを食べることを世に広めた天才蘭学者――平賀源内

    「土用の丑の日にうなぎを食べる」。この日本独自の習慣を提案し、現代にまで続く食文化として根付かせた人物が、江戸時代の天才・平賀源内です。彼の人生は発明にとどまらず、学問、文学、マーケティング、デザインなど多岐にわたります。

    彼はどのような歩みを経て時代を先取りし続けたのでしょうか。この記事では、平賀源内の生涯をたどりながら、彼の発想力と行動力の源泉、そして現代に通じるビジネス的視点に迫ります。

    幼少期の「天狗小僧」、発明の原点

    1728年、源内は讃岐・高松藩(現在の香川県さぬき市)に生まれました。父は蔵番(米の管理役人)を務めており、早くから本草学(薬物学)や儒学など、知識への興味を深めていきます。幼い頃からからくり仕掛けを作っては家族や村人を驚かせ、「天狗小僧」と呼ばれた逸話が残ります。13歳で本草学を学び始めるなど、好奇心と探究心は人一倍旺盛だったようです。

    「井の中の蛙」からの脱却――長崎で世界を知る

    21歳で父の跡を継ぎ、高松藩の蔵番となった源内。しかし、彼の内には「もっと広い世界を見てみたい」という思いがくすぶり続けていました。そして25歳、ついに長崎への遊学が叶います。鎖国下の日本において、長崎は唯一西洋文化と触れられる特別な場所でした。ここで源内は、オランダの科学技術や医学、奇抜な舶来品に心を奪われます。

    彼が帰郷直前に詠んだ句

    「井の中をはなれ兼たる蛙かな」

    は、まさに「狭い世界から抜け出し、もっと大きな舞台で自分を試したい」という気持ちの表れでしょう。

    江戸へ――自由を求めたフリーランス宣言

    長崎から戻った源内は、藩主の側近として薬園の仕事にも従事しますが、「わがままに自分のしたいことに専念したい」と、ついに脱藩を決意。家督を妹婿に譲り、江戸へ向かいます。当時の辞職願いには、こうあります。

    「我儘に一出精仕り度く」

    つまり、「思いのままに、自分の力を注ぎ込みたい」。現代のフリーランス魂そのものです。

    江戸での快進撃――学問・出版・イベントの先駆者

    江戸では本草学者・田村藍水に弟子入りし、薬用植物や鉱物の研究を深めます。源内の行動力はとどまらず、日本初の物産博覧会「薬品会」を開催。全国から珍しい薬草や鉱物を集め、参加者同士が知識を交換し合う場づくりを実現しました。今で言えば「異業種交流会」や「展示会」の先駆けです。

    これらの成果をまとめた書『物類品隲』では、朝鮮人参やサトウキビの栽培法、砂糖の製造法まで紹介。彼は「海外から輸入しなくても、日本に同じような薬草があるはずだ」と語り、地産地消の発想で国益の拡大を目指しました。

    世相を斬るペンは剣より鋭く――作家としての顔

    発明家としてだけでなく、源内は作家としても名を馳せます。『根南志具佐』や『風流志道軒伝』は、当時の社会を痛快に風刺しつつ、江戸庶民の日常や喜怒哀楽をユーモラスに描きました。特に『風流志道軒伝』は、主人公が日本中を旅して奇妙な体験を重ねる物語で、まるで日本版ガリバー旅行記のような人気作となります。

    また、浄瑠璃『神霊矢口渡』は江戸を舞台にした初の大ヒット作品。現代でも歌舞伎や文楽で上演されるなど、源内の文化的影響は計り知れません。

    発明の鬼才、エレキテルの衝撃

    源内の名を一躍有名にしたのが「エレキテル」――静電気発生装置の復元です。長崎で壊れたエレキテルを見つけ、文献も人脈も頼りにせず独力で修理・改良しました。江戸の町で公開した際、ハンドルを回すと発生する火花やビリッとした刺激に、見物人はみな驚きの声を上げます。

    しかし、源内の本意は「科学技術の発展」にありました。晩年、彼はこう嘆いています。

    「エレキテルは世の中の役に立つと思って復元したが、結局、見世物として消費されてしまった」

    科学の芽がまだ社会に根付いていなかったことに、もどかしさを感じていたのでしょう。

    マーケティングの天才――「土用の丑の日」にうなぎを広める

    さて、現代でも続く「土用の丑の日にうなぎを食べる」習慣。この風習の生みの親こそ、平賀源内です。

    江戸時代、夏場になると鰻屋の売上が落ち込みます。困り果てた店主が源内を頼ったとき、彼は「丑の日に『う』のつく物を食べると夏バテしない」という言い伝えを活用し、店頭に

    「本日、土用丑の日」

    と書いた貼り紙を出すよう提案しました。そして見事に集客に成功。店は大繁盛し、他の鰻屋にもこの流れが波及、やがて日本中に定着しました。まさに現代広告・プロモーションの先駆けです。

    さらに続く挑戦――鉱山開発からデザイン、そして失敗

    源内は鉱山開発や陶器の製法にも挑戦します。秋田藩からは鉱山指導を任され、銀の抽出技術で大きな成果を上げました。また、郷里に伝えた陶器「源内焼」は、独特な色彩美で高く評価されています。さらには「燃えない布・火浣布」を開発し幕府に献上、破魔矢や美しい櫛のデザインまで手がけるなど、まさにマルチクリエイターの面目躍如です。

    しかし、事業家としては必ずしも成功ばかりではありませんでした。鉱山開発も、陶器の量産も、利益には結びつかなかったのです。源内自身、「失敗できるのは挑戦している証拠だ」と何度も挑戦を繰り返しました。

    晩年の孤独と波乱――「非常の人」の最期

    さまざまな分野で活躍した源内ですが、晩年は精神的に不安定になり、人間関係でもトラブルを起こすことが増えます。1779年、修理の計画書を盗まれたと誤解して大工を斬り、投獄されてしまいます。獄中で病に倒れ、52歳でこの世を去りました。

    親友の杉田玄白は、源内の墓にこう刻みました。

    「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、なんぞ非常に死するや」

    常識にとらわれず、異端を貫いたあなたは、死に方まで非常だったのか、と。

    平賀源内から現代へのメッセージ

    平賀源内の生涯は「既存の枠を超えて、新しい価値を世に問う」ことの連続でした。土用の丑の日のうなぎにしても、エレキテルにしても、彼は「人々の暮らしを豊かにしたい」「日本をもっと元気にしたい」という情熱を持っていました。

    「我儘に一出精仕り度く」――自分の信じる道を恐れずに歩む。源内のこの姿勢は、変化の激しい現代社会においても、私たちに大きなヒントを与えてくれます。

    もし今、「自分のやりたいことを貫きたい」「新しい価値を生み出したい」と思っているなら、ぜひ源内の生き方を思い出してみてください。常識を疑い、失敗を恐れず、一歩を踏み出す勇気。そこにこそ、時代を変える力が宿っているのです。

    #イノベーション#マーケティング#平賀源内#日本史#発明家#土用の丑の日#うなぎ#フリーランス#挑戦する勇気#行動力

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