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7/31(木)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/07/30
日本の医療制度は、誰が“最初に”つくったのか――。
病院もなければ、医師の資格も曖昧だった時代に、医療制度・感染症対策・公衆衛生を一から設計し、今の日本の医療のかたちを築いた人物がいます。
その名は長与専斎(ながよ・せんさい)。幕末から明治へと時代が大きく変わるなか、彼は「国家に医療と衛生の制度を根づかせた最初の官僚」として、日本の近代化に大きな一歩を刻みました。
現代の私たちが安全な医療と清潔な生活を当然のものとして享受できているのは、長与専斎の制度づくりへの情熱と先見性があったからにほかなりません。
この記事では、彼の生い立ちや功績をたどりながら、今に通じる“公衆衛生”の本質についても考えてみましょう。
1838年(天保9年)、長与専斎は肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に、代々藩医として名を馳せる家に生まれました。父が早世し、祖父・俊達の養子として育てられます。俊達は名高い漢方医でしたが、蘭学(オランダ医学)への情熱から国禁を犯してまで西洋医学を採り入れ、天然痘の予防にも牛痘法を導入。専斎は、まさに伝統と革新がせめぎ合う環境で幼少期を過ごしました。
16歳の時、祖父の勧めで大阪・緒方洪庵の適塾に入門。ここは後の福沢諭吉や大村益次郎、大隈重信など、多くの近代日本のリーダーを輩出した名門です。専斎は福沢諭吉の後を継ぎ、11代目塾頭に抜擢されました。適塾では医学だけでなく、広く理学や語学を学ぶ環境があり、専斎は早くから西洋医学の重要性と将来性を肌で感じていたのです。
1861年、長崎に渡った専斎は、オランダ海軍医ポンペや、その後任ボードウィン、マンスフェルトらから最新の西洋医学を学びます。ここでの学びは単なる知識の吸収にとどまらず、「予防医学」「公衆衛生」という新しい概念に触れる大きなきっかけとなりました。
当時の日本では「病気になってから治す」のが主流でしたが、ポンペらは「病気にならない社会をつくる」こと――すなわち衛生行政や予防医学の重要性を説いていました。この考えの転換こそが、後の専斎の衛生行政の出発点となります。
1868年には長崎精得館(現・長崎大学医学部)の校長に就任。そこでは予科(基礎科学)と本科(医学)を分ける教育制度を導入し、科学的素養を持った医師育成を目指しました。今の医学部のカリキュラムの原型とも言える仕組みです。
1871年、文部省に招かれて上京した専斎は、岩倉具視らとともに欧米諸国を視察。ここで西洋の「治療より予防」「生活環境の整備」「公衆衛生行政」という先進的な取り組みに触れます。特にオランダやドイツの、上下水道や清潔な都市計画、衛生管理の仕組みに大きな衝撃を受けました。
欧米のHygiene(衛生)という概念をそのまま「健康」や「保健」と訳すのではなく、荘子の「衛生の経」から着想を得て、「衛生」という新しい言葉を自ら生み出しました。今や当たり前の「衛生」という言葉ですが、その背景には専斎の“ことば”へのこだわりと、社会全体を巻き込む改革への強い意思がありました。
1875年、内務省衛生局の初代局長に就任した専斎は、まず「医師資格試験制度」を創設。当時の医師は世襲・師弟制度が主流で、漢方医が強い影響力を持っていましたが、「医療水準の向上には試験による客観的な評価が必要」と考え、物理・化学・解剖・薬剤学など現代にも通じる試験科目を導入しました。
これにより日本においても、徐々に西洋医学が主流となり、漢方から近代医学への大転換が実現したのです。さらに専斎は、薬剤の輸入や流通管理のため「司薬場」を設置し、粗悪薬や偽薬対策に乗り出しました。1883年には医薬品の品質規格を定めた『日本薬局方』を制定し、現在の薬事行政のルーツを築いたのです。
さらに、コレラや天然痘などの伝染病が度々日本列島を襲うなか、専斎は「天然痘予防規則」の制定や種痘の義務化を断行。さらにコレラ対策として、東京・神田に下水道を敷設したのを皮切りに、全国で水道・下水インフラを推進しました。
専斎はまた、感染症対策を「官(政府)」と「民間」が協力して進めるべきだと強調し、強権的な隔離やロックダウンには否定的でした。
「住民の理解と協力がなければ衛生行政は成功しない」ーーこの専斎の思想は、現代の公衆衛生にも脈々と受け継がれています。
専斎の偉業は、“制度設計”だけに留まりません。日本細菌学の父・北里柴三郎が帰国後に職を得られず困窮していた際、盟友・福沢諭吉と協力し、伝染病研究所の設立を主導。北里に研究の場を与えたことで、後に日本の医学研究の発展を支える人材を輩出したのです。
また、後藤新平を見出し、衛生局長に抜擢。後藤は後に、東京市長や外務大臣、関東大震災後の帝都復興院総裁などを歴任し、日本の近代化をリードしました。専斎の「人を見る目」と、後進を伸ばす姿勢が、日本社会の底力を高めていったのです。
専斎は、国民の健康増進にも目を向けていました。伊勢二見浦や鎌倉由比ガ浜に海水浴場を開設し、鎌倉にはケアハウス「鎌倉海浜院」を建設。今でいう“健康リゾート”や“ヘルスプロモーション”の先駆けともいえる取り組みです。
長与専斎の最大の強みは、時代の変化を恐れず、常に世界の最先端に目を向けていたことです。欧米視察で得た知見を素早く日本流にアレンジし、旧来の慣習や反発にもひるまず制度改革を断行しました。
今、私たちの周囲でも「昔ながらのやり方」に固執する場面が少なくありません。しかし、専斎のように新しい価値観や技術をためらわず取り入れる柔軟さ――これは、どの時代にも通じる大事な視点です。
専斎は強いリーダーシップを持ちながらも、住民や現場の声を大切にした人物です。感染症対策や衛生インフラの普及では、トップダウンだけでなく、現場の事情や住民の理解・協力を重視しました。
現代の行政や企業運営でも、「現場をよく知り、関係者と対話する」ことの重要性は変わりません。
長与専斎は、単なる医療官僚ではありませんでした。世界を見渡す広い視野と、行動力、そして人材育成への情熱で、日本の医療と社会に革命を起こしました。彼がいなければ、今の日本の衛生水準や医療体制はまったく違ったものになっていたでしょう。
「変化を恐れず、最先端を学び、新しい価値を社会に根付かせる」――この精神こそ、現代の私たちが最も学ぶべき長与専斎の“凄さ”です。
あなたも、身近な課題に対して「専斎流」の発想で一歩踏み出してみませんか?未来を切り拓くヒントが、きっと見つかるはずです。