
豊臣家最後の砦 真田幸村の生涯
10/22(水)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/21
世界中で愛されるCHANELブランドですが、その原点には、波乱と挑戦、そして自分の人生を自ら切り拓く一人の女性の物語が隠されています。
今回は、夢を現実に変え、その夢を今もなお私たちの心に灯し続ける、ココ・シャネルの生涯を、時代の流れとともに辿ります。
1883年、フランス・ソミュールの貧しい家庭に、ガブリエル・ボヌール・シャネルは生まれました。幼い頃に母を亡くし、父親にも見捨てられた彼女は、姉妹とともに修道院の孤児院で育ちました。そこで学んだものは、厳格な規律と、女性としての礼儀、手に職を持つことでした。
「私の人生は楽しくなかった。だから私は自分の人生を創造したのです」
シャネルが後年に語ったこの言葉には、孤児院での苦しみと、そこから這い上がる強い意志がにじんでいます。彼女は、どんな境遇にあっても、自分の人生を自分で設計するしかないと悟っていたのです。
18歳で孤児院を出ると、裁縫の技術を生かしてお針子として働き始めます。同時に、夜はキャバレーで歌手として舞台に立つ日々も続けていました。
この時代、舞台でよく歌っていたのが「Qui qu’a vu Coco?(ココを見たのは誰?)」という曲。やがて「ココ」という愛称が、彼女の代名詞となっていきます。
シャネルの人生を語るうえで「恋愛」は欠かせません。彼女は生涯結婚しませんでしたが、多くの男性たちとの出会いが、ビジネスの糧となり、人生の推進力となりました。
転機が訪れたのは、裕福な将校・エティエンヌ・バルサンとの出会いです。バルサンの屋敷で社交界デビューを果たし、上流階級の文化や人脈に触れる中で、彼女の才能が花開いていきます。
そこで退屈しのぎに作った帽子が評判を呼び、バルサンの資金援助を受けて、1910年、パリ・カンボン通り21番地に最初の帽子店「シャネル・モード」をオープンしました。
「競馬場で女性たちが被っていたのは、フェザーや果物で飾った巨大な帽子。でも何より我慢できなかったのは、その帽子たちが彼女たちの頭に全くフィットしていなかったことよ」
シャネルは当時の女性の「不自由」さに、心から疑問を抱いていました。
さらに人生を大きく動かしたのが、イギリス人実業家アーサー・カペルとの恋です。カペルの支援で、1913年にはドーヴィルにブティックをオープン。彼女のデザインは、コルセットや装飾過多なドレスを捨て、動きやすくシンプルなジャージー素材の服を提案。
「私は流れに逆らって泳ぐことで強くなったの」
その言葉通り、既成概念に挑戦することでファッションの常識を塗り替えたのです。
1920年代、シャネルの斬新な発想は、フランス中に広がっていきます。動きやすく、機能的で、しかもエレガント。彼女の服は、貴族や女優たちにも愛され、ファッション業界に新風を吹き込みました。
なかでも伝説となったのが、1926年に発表した「リトルブラックドレス」です。当時、黒は喪服だけに使われる色でした。しかしシャネルは、「たくさんの色を使えば使うほど、女はかえって醜くなることにみんな気づかない」と語り、「黒は全てを含む色。白も同じよ。共に絶対的な美であり、完全な調和だわ」と、その美しさを世に示しました。
シンプルな黒いドレスは、女性たちの自由と自信の象徴となり、今も世界中で愛されています。
「一番大切なのは、どんな服を着るかではなく、どんな態度でその服を着るか」
この言葉が、ファッションを超えて自己表現の大切さを教えてくれます。
1921年、シャネルは初の香水「シャネル No.5」を発表します。
「女性のための女性による香水を作りたい」
調香師エルネスト・ボーとともに生み出されたこの香りは、当時としては革新的なアルデヒドを使用し、複雑で魅惑的なフローラルノートが特徴です。
「ドレスのコレクションを発表するのは5番目の月、5月の5日。だからこの香水にはその試作品番号の5を名前としてつけましょう。5という数字はきっと幸運をもたらすから」
こうして名付けられた「シャネル No.5」は、マリリン・モンローが寝る時に使っているという逸話も重なり、「女性のエレガンスや自信を引き出す特別な存在」として世界中の女性に愛され続けています。
順風満帆に見えたシャネルの人生も、激動の時代の波に飲み込まれます。
1939年、第二次世界大戦の勃発とともに、彼女は多くの店舗を閉鎖。ナチスドイツ占領下のパリで、ドイツ将校と親密な関係を持ったことでスパイ疑惑が持ち上がり、解放後に逮捕される事態となります。すぐに釈放されるものの、世間の非難を浴び、彼女はスイスへと亡命生活を送ることになりました。
その後15年間、ファッション界から遠ざかりますが、彼女の「夢」はまだ終わりません。1954年、70歳を過ぎてのカムバック。保守的なフランスでの評価は低かったものの、アメリカでシャネルスーツが大ヒットし、再び「女性の自由と自立」の象徴として脚光を浴びるようになったのです。
晩年のココ・シャネルは、パリのホテル・リッツに住まい、創作に情熱を燃やし続けていました。
「仕事をしないと退屈なの」
彼女は、87歳でこの世を去るその日まで、次のコレクションの準備をしていたといいます。
「20歳の顔は自然から授かったもの。50歳の顔はあなたの功績」
彼女の人生そのものが、この言葉を体現しています。どんなに辛い過去や逆境も、全てが「自分の夢を生きる力」に変わったのです。
「実際にどう生きたかということは大した問題ではないのです。大切なのは、どんな人生を夢見たかということだけ。なぜって、夢はその人が死んだ後もいき続けるのですから。」
ココ・シャネルの人生は、決して順風満帆ではありませんでした。孤児院での苦しみ、愛する人との別れ、戦争とスキャンダル、世間からの批判。それでも彼女は、自分の夢を信じ、世の中に問い続けました。
彼女が生み出したものはファッションアイテムだけでなく、「自分らしく生きる」「自分の夢を追いかける」というメッセージそのものです。
夢に迷ったとき、「大切なのは、どんな人生を夢見たか」というシャネルの言葉を思い出してください。夢はあなたの中にあり、あなたが生きた証となって、きっと誰かの未来へと受け継がれていくはずです。