
所得倍増計画を執行した第58~60代内閣総理大臣...
10/11(土)
2025年
SHARE
ビジョナリー編集部 2025/10/10
「政治家は運が大半です。悪運が強くないと駄目なんですよ」
こう語ったのは、昭和の政界に燦然と名を刻む岸信介元首相です。岸信介という名前を聞いて、どんな人物像を思い浮かべるでしょうか?「戦後日本の立役者」「強権的なリーダー」――人によってイメージはさまざまです。
岸信介ほど評価が分かれる政治家も珍しい存在です。彼はどのような時代を生き、どのような信念で日本を導いたのでしょうか。岸信介の生涯をたどりながら、その実態に迫ります。
1896年、山口県の造り酒屋の次男として生まれた岸信介は、元々は「佐藤信介」という名で育ちました。母の厳格な教育と、叔父である佐藤松介(東京帝大出身の医学者)による“惜しみない投資”が、少年時代の岸に大きな影響を与えます。松介は自らの収入を惜しみなく岸兄弟の教育費に注ぎ、「一銭の蓄えも残さなかった」と岸自身が後年語るほどでした。
「悲しくて泣いても泣いても泣き足らぬ思いであった」
松介の急逝の際、岸は深い悲しみに暮れたと語っています。この叔父への恩義と向上心が、その後の人生を貫く原動力となりました。
やがて中学3年のとき、父方の岸家に養子入りし「岸信介」と名乗るようになります。東京帝国大学法学部では、後に著名な法学者となる我妻栄と首席を争うほどの秀才でした。第一次世界大戦後の動乱の時代、岸は「国家の手で資本主義の矛盾を解決する」国家社会主義的な発想を持つようになり、自由放任だけでは社会は安定しないという現実的な視点を養いました。
大学卒業後、周囲の反対を押し切って農商務省に入省します。「政治の実体は経済にある」という信念から、経済行政を志したのです。やがて商工省で頭角を現し、上司の吉野信次と共に省内最大の実力者へと成長します。
しかし、組織内の対立から辞任を余儀なくされ、1936年、満州国(当時の中国東北部)へと渡る決断をします。当時の満州は、日本の新しい国づくりの“実験場”。岸はここで、「白紙に描くようにして造った私の作品である」と自負するほど、ゼロから産業政策を作り上げました。国家主導の“統制経済”を導入し、必要な物資の供給や産業インフラ整備に辣腕を振るいます。
この満州での経験が、後の政治家としての岸に大きな自信とネットワークをもたらしました。「満州で立派な政治家に成長した」と現地の同僚たちも称賛しています。
第二次世界大戦の終結とともに、岸は東条英機内閣の商工大臣を務めていたことでA級戦犯として逮捕されます。ですが、起訴されることなく3年後に釈放。この“悪運の強さ”について、岸自身、「政治家は運が大事」と語っています。
多くの同志やライバルが粛清や失脚に追い込まれるなか、岸は奇跡的に政界復帰の道を歩みます。1953年、衆議院議員に初当選。やがて1955年には保守合同を成功させ、自由民主党を結成。これが“55年体制”と呼ばれる日本政治の安定基盤となりました。
総理候補として有力視される中、最大のライバル・緒方竹虎が急逝。さらに、総裁選で勝利した石橋湛山も政権発足からわずか2カ月で病に倒れ、外相(副総理格)だった岸に総理の座が転がり込むのです。まるで運命に導かれるような展開でした。
1957年、60歳で内閣総理大臣に就任した岸信介。彼の最大の課題は「占領体制からの脱却」と「共産主義勢力の浸透阻止」でした。「真の独立国家を実現するには、日米安保の改定と憲法改正が不可避」と考えていたのです。
特に日米安全保障条約(安保条約)の改定には、全エネルギーを傾けました。戦後初の対等な日米関係構築を目指し、25回にも及ぶ日米会談の末、1960年、ついに新安保条約の調印にこぎつけます。アイゼンハワー米大統領の訪日も決定し、日米の“新時代”が始まるはずでした。
しかし、安保改定には国内で猛烈な反対運動が巻き起こります。「日本が再び戦争に巻き込まれるのではないか」という不安から、学生・労働組合・農民など幅広い層が国会を取り囲み、怒号が飛び交いました。岸内閣は国会会期の強行延長、そして与党単独での採決を断行。これが「強権的」「独裁的」との批判を招くこととなります。
「この条約さえ通れば、殺されようが、どうされようが構わない」
新安保条約の成立を目前にして、岸は周囲にそう語ったと伝えられています。実際、官邸にはデモ隊が押し寄せ、警視総監でさえ警備に自信を失うほどの緊迫した状況。側近たちも次々と官邸から去り、最後まで残ったのは実弟の佐藤栄作だけでした。岸は「死ぬなら首相官邸で」と覚悟を決めていました。
新安保条約は1960年6月19日、参議院での自然承認という形で成立します。岸はその4日後に退陣を表明。首相在任期間はわずか3年半でしたが、日本の戦後の進路を決定づけた「一大事業」をやり遂げたのです。
退陣後も、岸信介は「昭和の妖怪」と呼ばれるほどの強い存在感を放ち続けました。表に出ることは少なくなりましたが、沖縄返還や日韓国交正常化など、戦後日本の重要局面で影から政界を動かしたとされます。また、憲法改正や安全保障体制の強化をライフワークとし、亡くなる直前まで政界の精神的支柱として活動を続けました。
彼のリーダーシップは、「対話力」と「包容力」に満ちたものでした。自分と異なる意見の持ち主にも必ず一度は会って話し、必要とあれば手を結ぶ。その柔軟さと冷静な判断力も、岸信介が長く「黒幕」として政界に影響を与え続けた理由の一つです。
岸信介の評価は、賛否が大きく分かれます。
「天才的な政治家」「日本の骨太な基盤を作った指導者」と称賛される一方、「強権的」「悪い政治家」といった批判も根強く残ります。
戦前の満州国時代の統制経済政策や、阿片をめぐる疑惑など、戦時中の活動に対する批判も依然として論争の的です。
それでも、日米安保改定による独立国家路線への転換、現代日本の経済成長の基礎作り、アジア外交の先見性など、今日の日本社会の枠組みを形作った巨人であることは間違いありません。
実の弟・佐藤栄作や孫の安倍晋三へと続く「首相ファミリー」の礎も、岸信介が築いた政治家としての遺産のひとつです。
「政治家は運が大半。悪運が強くないと駄目だ」 時代の大きなうねりの中で、大胆な決断と強い信念、そして運を味方につける覚悟――。岸信介の歩みは、単なる歴史上の逸話ではなく、今を生きる私たちにも問いかけるものです。
あなたがもし、困難な状況に直面しているなら、「運」と「信念」を持って一歩を踏み出す勇気を岸信介から学んでみてはいかがでしょうか。昭和の妖怪と呼ばれた男の生き様には、現代にも通じるリーダーシップのヒントが詰まっています。