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ポケモン30年――世界最大級IP(知的財産)の戦略
ビジョナリー編集部 2026/02/20
「ポケモンは何種類いるか知っていますか?」
今では、その数が1000を超えていることを聞いて驚かれる方も多いのではないでしょうか。2026年、ポケットモンスター(以下ポケモン)は30周年を迎えます。その歩みは、世界を席巻する最強のキャラクターIP(知的財産)へと変貌してきた歴史そのものです。今回は、ゼロから経済圏を築いたポケモンの進化と“制作の舞台裏”に迫ります。
ポケモンの始まり
1996年2月27日。ゲームボーイのロールプレイングゲームとして発売された『ポケットモンスター 赤・緑』。当時、開発を担っていたゲームフリークは少人数体制のスタジオでした。任天堂との強固なパートナーシップのもと、小さな組織が生み出した“ポケモン”は、プレイヤー同士の交流を通じて人気を広げ、やがて社会現象へと発展していきます。
創業者の田尻智氏が「子どもの頃の虫取り体験」をヒントに企画した本作は、当初「カプセルモンスター」と名付けられていました。しかし、商標や響きの問題から「ポケットモンスター」へと変わり、そこから“ポケモン”という今や誰もが知る名前が誕生しました。
ポケモンの遊び方は、ただ手持ちのモンスターを強くすることではありません。物語はまず、未知の仲間を「見つける(遭遇する)」というワクワクから始まります。草むらに足を踏み入れ、何が現れるか分からない瞬間。その小さな緊張と期待が、冒険の原点でした。
そしてポケモンは、「集める」「育てる」「戦わせる」「交換する」という、それまでのRPGにはなかった遊び方を提示します。とりわけ画期的だったのが、ゲームボーイの通信ケーブル機能です。友達とポケモンを交換できるという仕組みは、「ひとりで遊ぶゲーム」を「誰かとつながる遊び」へと変えました。
ピカチュウ誕生の裏側
「ポケモン」と聞いてまず思い浮かべるのは、やはり「ピカチュウ」ではないでしょうか。
ポケモンの開発初期は「モンスター」といえば“いかつい”というイメージから、ギャラドスやカイリキーのような、“いかついキャラクター”ばかりが生まれていました。そこで開発現場から「もっと可愛いモンスターが必要だ」という声が上がり、デザイナーのにしだあつこさんが加わりました。
にしださんが最初に描いたピカチュウは、「大福」のような丸いフォルムが特徴でした。名前の「ピカ」は電気が光る音から、「チュウ」は自然に浮かんだ語感。当初はネズミを強く意識していたわけではなく、後から設定が整理され、「電気ネズミ」というキャラクターに落ち着きます。
「もっと可愛く!」と修正を重ねる中で、リスのようなほっぺや雷型のしっぽなどの特徴が加わり、現在のピカチュウの姿へと形づくられていきました。
ピカチュウは開発チームの間でもダントツの人気を誇っていました。「他の人にはあまり出会わせたくない」と、ゲーム内でも出現率が低く設定されていましたが、その希少性が逆に話題を呼び、愛着のあるキャラクターとして一気に広まることとなります。
アニメ化が生んだ“物語性”のイノベーション
ゲームの爆発的ヒットを受け、次に浮上したのがアニメ化の構想でした。しかし実は、アニメ化の話は当初2度も断られていたのです。ゲームのヒットを受け、次にゲームの人気が分散するのではないか、ブランドの価値を損なう可能性はないか――そうした懸念があったとされます。
その流れを前に進めたのが、小学館のプロデューサー久保雅一氏でした。「アニメ化によって新たな波を起こせる」との提案が実を結び、1997年、テレビ東京系で放送が始まります。
ゲームでは151匹のうちの1匹にすぎなかったピカチュウは、アニメで主人公サトシの相棒に選ばれました。ゲームではプレイヤーが最初に三匹(ゼニガメ・ヒトカゲ・フシギダネ)の中から一匹を選ぶ仕組みです。もしその中のポケモンを主人公の相棒にすると、別のポケモンを選んだ子どもが距離を感じてしまう可能性がありました。そこで、誰もがフラットに受け止められる存在としてピカチュウが起用されたといわれています。
こうしてピカチュウは、「サトシとともに冒険する仲間」という物語性を得て、世界中の子どもたちの“心の友”となっていきます。
世界進出への“秘策”と天才プログラマーの存在
日本で社会現象となったポケモンは、1998年にいよいよ海外進出を果たします。しかし、英語版の開発には大きな課題がありました。
当時、ゲームフリークは次回作の『金・銀』の開発で手いっぱい。そこで登場したのが、ハル研究所社長で、のちに任天堂社長となる岩田聡氏です。岩田氏は、日本語版の仕様書すら受け取らず、ゲームを解析しながら英語版を作り上げる“リバースエンジニアリング”という手法で移植を実現しました。
この離れ業のおかげで、アメリカなど海外市場でもポケモンは爆発的なヒットを記録します。特にアニメとゲームの同時展開が功を奏し、映画第一作『ミュウツーの逆襲』の興行収入は、アメリカにおける日本映画の最高記録を樹立しました。
海外市場での成功は、漫画の展開や、現地の若者文化への浸透など、現在の“グローバルキャラクター”としてのポケモンの礎となりました。
低迷と再生――「ポケモンGO」の衝撃
しかし、ポケモンの歩みは決して順風満帆だったわけではありません。2010年代初頭には、勢いに陰りが見える局面もありました。新たなライバル「妖怪ウォッチ」の台頭や、カードゲームの売上減少など、IPとしての“寿命”が危ぶまれる局面もあったのです。
この窮地を救ったのが、2016年に全世界でリリースされたスマートフォン向けARゲーム『ポケモンGO』です。ナイアンティック社(位置情報ゲームの開発で知られる米国企業)との協業で生まれたこのタイトルは、「現実世界でポケモンを探して捕まえる」という新しい体験を提供し、わずか1カ月で売上やダウンロード数などに関するギネス記録の5冠を達成。老若男女がスマホ片手に街を歩き、世界中で“ポケモンフィーバー”が再燃しました。
この“再ブーム”によって、ポケモンカードもかつてないほどの人気を取り戻し、コロナ禍には一枚数億円で取引されるカードが現れるなど、「遊び」だけでなく、「資産」としての側面も強調されるようになりました。
15兆円経済圏へ――“最強IP”の現在
ポケモンの経済的インパクトは、もはや“世界一”の域に達しています。関連ゲームソフトの累計出荷数は4億8000万本を超え、アニメ、映画、グッズ、カードゲームなどを合わせた経済規模は15兆円を突破。
これはハローキティやスターウォーズ、ミッキーマウスといった伝説的IPをも凌ぐ規模であり、まさに人類史上最も成功したキャラクタービジネスと言っても過言ではありません。
その背景には、任天堂がゲームフリークという“才能”と粘り強く向き合い続けたこと、アニメやカード、スマホアプリなどメディアミックスを果敢に推進した経営陣の挑戦心、そして何より「ポケモンはみんなのもの」という一貫したスタンスがありました。
30年目のポケモン――「思い出」から「未来」へ
かつてトレーナーだった方も、最近のポケモンに触れてみれば、その“進化”と“懐かしさ”の両方を感じられることでしょう。
ピカチュウをはじめ、無数のポケモンたちは今もなお、世界中の子どもから大人まで楽しませ続けています。
これからも新しい遊び方、新しい物語、新しい仲間たちが生まれていくはずです。ポケモン30周年、次の時代にどんな“進化”が待っているのか――そのワクワクを、ぜひご自身の目で確かめてみてはいかがでしょうか。


