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2025

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    宮崎駿と並び立つ巨匠・高畑勲、その創作哲学と挑戦の生涯

    宮崎駿と並び立つ巨匠・高畑勲、その創作哲学と挑戦の生涯

    日本のアニメーション史を語るうえで、映画監督・高畑勲を外すことはできません。巨匠・宮崎駿と肩を並べ、時にはぶつかり合いながらも互いを高め合い、日本のアニメを世界的な文化へと押し上げました。その生涯をたどりながら、彼自身の言葉や行動の背景にも迫っていきます。

    戦火を生き抜いた少年時代――「平和」への祈りの原点

    1935年、三重県宇治山田市(現・伊勢市)に生まれた高畑勲。父親は中学校の校長、戦後は岡山県の教育長にまでなった教育者でした。教養ある家庭に恵まれた一方、彼の幼少期は時代の荒波にさらされます。1945年、岡山で激しい空襲を受け、家を焼け出され、姉と2人で街をさまよいました。

    この体験が後の高畑勲の根底にある「反戦」「平和」への強い信念を生み出しました。後年生み出す『火垂るの墓』の原風景は、まさにこの少年時代にありました。

    映画への憧れ、そして運命の出会い

    戦後、高畑は東京大学文学部仏文科に進学します。在学中は映画研究会で活動し、ロシアのアニメ映画『やぶにらみの暴君』との出会いに心を揺さぶられます。1959年、東映動画(現・東映アニメーション)に入社し、演出助手としてアニメ制作の世界へ飛び込みます。

    この時期、後に「盟友」となる宮崎駿と出会います。当時の高畑は、現場の労働環境改善のために労働組合の副委員長も務め、宮崎と共に労働運動にも奔走しました。アニメーションの現場で議論を重ねる中、互いに深い信頼を築いていきます。

    「妥協なき挑戦」――初監督作『太陽の王子ホルスの大冒険』

    1968年、高畑はアニメ長編映画『太陽の王子ホルスの大冒険』で初監督を務めます。この作品は、宮崎駿や大塚康生とともに、ストーリーやキャラクターについて徹底的な議論を重ね、脚本は5稿を経て完成。しかし、妥協を許さぬ制作姿勢が災いし、スケジュールは3年に延び、予算も大幅に超過します。会社上層部からは「プレハブを作ってくれと言ったのに、君たちは鉄筋コンクリートを作ろうとしている」と涙ながらに諭されたと言います。

    興行的には失敗に終わりましたが、宮崎駿もこの作品について「青春そのものだった」と後に語っています。

    「細部への異常なこだわり」――リアリズムの追求

    高畑勲は、徹底したリアリズムへのこだわりを持っていました。『アルプスの少女ハイジ』では、ヤギのチーズの作り方やスイスアルプスの植生、季節ごとの虫や自然音までを詳細に調査し、全キャラクターの性格や生い立ちに至るまで、膨大な資料を作り上げました。スタッフからは「狂気の沙汰」とまで言われたほどです。

    『火垂るの墓』では、B29爆撃機がどの方角から飛来したか、清太の家の玄関の向きと空襲の方向まで史実に基づき再現。パンを食べるシーンがあれば、そのパンの原材料まで調べ上げる。高畑のこの執念こそが、作品に圧倒的な説得力と深みを与えたのです。

    『ハイジ』が開いた新たな地平

    1974年、『アルプスの少女ハイジ』で監督を務めた高畑は、「子供の日常や等身大の実生活」を描くことに挑戦します。同時に、宮崎駿や小田部羊一とともにスイスへロケハンを敢行し、リアルな風景と生活感をアニメに持ち込みました。

    このリアリズム志向は大きな反響を呼び、平均視聴率20%超の大ヒット。アニメで日常を描く流れは「世界名作劇場」シリーズへと発展し、その後のアニメ業界に多大な影響を与えました。

    「理想の主人公」から「リアルな人間」へ――高畑哲学の深化

    高畑は『ハイジ』を振り返り、「主人公があまりにも理想的な“良い子”すぎた」と反省しました。そして、続く『母をたずねて三千里』では、主人公マルコに「可愛げに欠ける」部分や、人間くさい弱さを持たせることで、リアルな人物像を追求したのです。高畑は「私たちはここで初めて、主人公たる資格に欠けた“人物”と“社会”を主人公に据えたアニメーションを作り上げた」と語っています。

    この哲学は『火垂るの墓』の清太にも引き継がれます。高畑は「反戦映画を作りたかったわけではない。ただ清太という少年の現代的な人物像を描きたかった」と述べています。清太の「こらえ性のなさ」や「人間関係の煩わしさ」は、むしろ現代の若者にこそ強く共感されるものだと考えていました。

    宮崎駿との「共同事業者」時代、そして決別

    高畑と宮崎の関係は、互いに支え合う「完全な共同事業者」でした。高畑は「ぼくは自分の仕事の多くを宮さんの力に支えられながらやってきました」と回顧しています。しかし、宮崎が『未来少年コナン』で監督デビューし、冒険活劇路線を歩み始めると、2人の表現スタイルは次第に分かれていきます。

    『赤毛のアン』の制作では、主人公アンへのアプローチをめぐり対立。高畑は「わからないまま描く」ことを選びましたが、宮崎は「人物にのめり込まなければ作れない」と主張し、途中で降板します。

    ジブリ設立とプロデューサーとしての新たな役割

    1984年、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』劇場化にあたり、高畑はプロデューサーを引き受けます。「昔のようにもう一度、ともに苦労をわかちあい、ともに成功を喜びあってみたいという気持ちがわいてきた」と語った高畑。未経験のプロデューサー業にも果敢に挑み、現場の自主性を大切にしつつ、作品の完成を見届けました。

    この成功を受け、1985年、スタジオジブリが設立されます。高畑は「作り手は経営の責任を背負うべきではない」と主張し、経営には関わらず、ひたすら「作り手」として作品づくりに専念しました。

    「日本回帰」――自国の風景と暮らしへのまなざし

    80年代以降、高畑は『じゃりン子チエ』や『柳川堀割物語』など、日本の風景や共同体を描く作品に注力していきます。彼は講演で「ある時期から、私自身としては、意識的に、日本を舞台にしたものだけをつくるようにしています」と明言しています。かつては「ヨーロッパの景観に憧れた」と振り返りつつ、「なぜ日本の景観に無関心なのか」と自問自答を重ねました。

    『おもひでぽろぽろ』では、山形の農村の暮らしをリアルに描き、『平成狸合戦ぽんぽこ』では、日本の自然と開発の問題をシビアな視点で描きました。「ニセのファンタジーでありもしない心意気や勇気や希望を謳ってみても無駄だと思います」と語り、現実を直視したうえで、それでも生きていくキャラクターの姿を描きました。

    アニメーションの新たな力

    『おもひでぽろぽろ』で主人公が大根を洗うシーン。水の冷たさ、根菜の重み、手の感触――普段見過ごしている何気ない体験にアニメならではの光を当て、「こんな風に見ることができたんだ」と観客に新たな発見をもたらします。

    彼の言葉に「外側からものを眺めていると、けっこう世の中、おもしろいことばかり」というものがあります。日常の何気ない瞬間の中にこそ、驚きや感動は潜んでいる。それを見抜き、丁寧に描き出す姿勢が、高畑作品の深い共感と感動につながっています。

    高畑勲との別れ

    2018年、高畑勲は肺がんのため、82歳で亡くなりました。お別れの会は、高畑が何度も足を運んでいた「三鷹の森ジブリ美術館」で行われ、生前に親交のあった映画監督や俳優、アニメーターなど約1200人が参会しました。
    宮崎駿は開会の辞を1ヶ月かけて準備し、当日涙ながらに読み上げました。

    「パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。ありがとう、パクさん。55年前に…あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。」

    パクさんとは高畑勲のニックネームです。宮崎駿にとって師匠であり、一緒に作品を作った友人であり、違うものを作り初めてライバルとなった存在。お互いに相手がいたから頑張れたという関係は、55年間かけて積み上げた特別なものとなっていました。

    「完璧主義者」高畑勲、その伝説と評価

    高畑勲の完璧主義ぶりは、宮崎駿に「このスタジオは高畑さんのスタジオで、俺はその資金を稼ぐだけの監督なんだ!」と言わしめるほど。締切よりも作品の完成度を優先し、時にスタッフを困らせることもありました。しかし、その執念が生み出した作品群は、世界中で高く評価されています。

    『火垂るの墓』はフランスで約20年にわたり連日上映され、『ホーホケキョとなりの山田くん』はニューヨーク近代美術館の永久保存作品に選定されました。宮崎駿も「日本のセルアニメーションの技術の大半は高畑さんの発明だよ」と語り、日本アニメの基礎を築いた人物と讃えています。

    まとめ

    高畑勲の人生は、波乱と挑戦、そして細部へのこだわりの連続でした。戦争体験、妥協なき創作、宮崎駿との友情と決別、日本の風景へのまなざし。そのすべてが、唯一無二の作品群として結晶し、今も私たちの心に訴えかけてきます。

    現状に満足せず、一歩先の「面白さ」や「新しさ」を求め続ける。それが、未来を切り開くカギなのかもしれません。

    #ジブリ#高畑勲#宮崎駿#スタジオジブリ#日本アニメ#アニメ業界#火垂るの墓#アルプスの少女ハイジ

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