
所得倍増計画を執行した第58~60代内閣総理大臣...
10/12(日)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/10/08
「死ぬということは、最も容易な方法で、なんでもないことだ」
この言葉を残した男が、命を賭けて日本を終戦へと導いたことをご存じでしょうか。第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎。彼の生涯をたどるとき、混迷の時代に一筋の光をもたらした、まさに“最後の武士”の姿が浮かび上がります。
なぜ彼は命を賭してまで、戦争を止める決断を下せたのか。その死生観、そして日本の未来への覚悟を紐解いていきます。
鈴木貫太郎が生まれたのは、慶応3年(1867年)12月24日。徳川幕府が大政奉還を果たし、まさに日本が近代へと大きく舵を切ろうとしていた時代でした。千葉県北端の関宿藩の代官の家に生まれますが、“旧幕府の手先”というレッテルは、若き日の鈴木にとって大きな壁となります。
海軍に入るものの、差別や偏見にさらされ、一度は辞職を考えるほどでした。しかし父からの「軍に入ったからには、国を守るためにしっかり働け」という手紙に背中を押され、再び奮起します。この時期の経験が、「己を殺して公に尽くす」覚悟を育んだのでしょう。
日清・日露戦争に従軍した鈴木は、部下から“鬼貫”と呼ばれるほど厳しい訓練を課し、実戦では日本海海戦において敵艦撃沈の大戦果を挙げました。普段は温厚ながら、戦いとなれば一切の妥協を許さない。まさに武人としての矜持を体現した存在でした。
やがてドイツに駐在し、海軍大将、連合艦隊司令長官と出世を重ねる一方、暴力的な伝統であった兵学校での鉄拳制裁を禁止し
「大和魂とは、道徳上の上下一致、同心一体である」
と説いたのです。ここにも鈴木の“人を思う武士道”が見て取れます。
昭和4年(1929年)には、昭和天皇の強い希望で侍従長に抜擢されます。根っからの軍人であり「武人は政治に関わるべきでない」という信念を持つ鈴木は、この任を「自分には向かない」と考えていましたが、天皇の信頼に応え、宮中の相談役として支える日々が続きました。
この時期、軍部による政治介入が激しくなりつつありました。陸軍の安藤輝三という青年将校が訪ねてきた際には
「軍備は国家の防衛のためのもの、みだりに政治に利用してはならない」
と2時間以上にわたり諭したといいます。
昭和11年(1936年)、日本は近代最大のクーデター「二・二六事件」に揺れます。安藤輝三が率いる青年将校らが「昭和維新」を叫び、要人暗殺を図ったのです。鈴木も標的となり、邸宅を急襲され、三発の銃弾を浴びて瀕死の重傷を負いました。
止めを刺されそうになったその時、妻・たかが毅然と「老人なのでやめてください!やるなら私がいたします!」と叫び、襲撃の手を止めさせます。安藤は
「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対して、何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ず、こうした行動をとったのであります」
と語り、「自分はのちに自決いたします」と残し引き上げました。
安藤が自殺未遂の末に処刑されたことを知り、鈴木は安藤について
「思想という点では、実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」
と述べています。敵味方を越え、命の重さを知る者だからこその言葉でしょう。
昭和20年(1945年)4月。日本は敗戦の淵にあり、東京大空襲や沖縄戦、そしてドイツの降伏により孤立を深めていました。そんな中、昭和天皇が「もう他に人はいない。どうか頼む」と、77歳の鈴木貫太郎に総理大臣就任を懇願します。
77歳という高齢、そして「軍人は政治を本分とせず」という信条から固辞しましたが、「頼む!この重大なときには、もう他に人はいない」と再三の要請を受け、覚悟をもって就任を受け入れました。鈴木は所信表明演説で次のように述べました。
「私の最後のご奉公と考えます。まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります」
“死に花を咲かす”、“私の屍を踏み越えて”という言葉に込められた本心は、決して国民に死を強いるのではなく、「一人でも多くの国民を守り和平に導く」ことへの決意でした。
総理大臣となった鈴木貫太郎は、戦況悪化の中でも人間らしい義理を貫き通しました。その象徴が、アメリカのルーズベルト大統領死去の際の弔意表明です。
「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは、亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います。」
戦時中の敵国のリーダーに堂々と敬意を表したこの発言は、世界中を驚かせました。ドイツの作家トーマス・マンは「日本にはなお騎士道精神があり、人間の死への深い敬意と品位が存している」と感嘆し、ヒトラーの罵倒声明と対比して「ドイツ人は恥ずかしくないのか」と自国民に問いかけました。
一方で、国内の青年将校らは「敵国の大統領に弔意を表すとは何事か」と首相官邸に押しかけます。しかし鈴木は
「古来、日本精神の一つに、敵を愛すということがある。私もまた、その精神に則ったまでです」
と、毅然と応じました。この“敵をも敬う”姿勢こそ、本物の義理であり、戦後日本が世界の信頼を取り戻す礎となりました。
戦局は日ごとに悪化し、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦と、日本はまさに崖っぷちに立たされます。軍部は「一億玉砕」「本土決戦」を叫び、国民も“死ぬ覚悟”を求められていました。
鈴木は表面上は「聖戦完遂」を説きながら、内心では「これ以上、国民の命を失わせてはならない」という信念を持ち続けていました。竹槍を持って訓練する女子学生の姿を視察した際には
「陸軍は本気で、これらの兵器で戦わせようとしているのか。狂気の沙汰だ」
と漏らしたといいます。
8月9日、最高戦争指導会議で意見が真っ二つに割れる中、鈴木は「いよいよの場合は、陛下にお助けを願います」と昭和天皇に“聖断”を仰ぎます。
御前会議で天皇は
「これでは日本民族はみな死んでしまう。そうなったら、どうして、この日本という国を子孫に伝えることが出来るか。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人たちが将来ふたたび起ち上ってもらう。それ以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」
と述べました。参列者が涙する中
「それに、このまま戦を続けることは、世界人類にとっても不幸なことである。自分のことはどうなっても構わない。堪え難きこと、忍び難きことであるが、この戦争をやめる決心をしたしだいである。」
と続け、ポツダム宣言の受諾、すなわち終戦が決定しました。
終戦という難題にあたって、天皇の終戦の意志を拝し禁じ手の聖断を二度までも仰ぐ。そうするしかできなかった責任を痛感し、終戦と同時に鈴木内閣は総辞職します。
いつでも身も地位も捨てる覚悟で難局にあたった鈴木は、敗戦の責任は身を捨てることではなく、復興を見届けることと考え、枢密院議長を経て郷里へ戻り、昭和23年(1948年)4月17日、81歳でこの世を去りました。
死の床で鈴木が繰り返したのは「永遠の平和」という言葉でした。幾度も死線をくぐり抜け、国のために命を差し出す覚悟を持ち続けた男が最後に託したのは、未来の日本人への平和の願いだったのです。
「死ぬということは、最も容易な方法で、なんでもないことだ」と語った鈴木貫太郎。その言葉の奥にあるのは、命を惜しまず、しかし命の重さを知る者だけが到達できる“覚悟”です。
彼は、時に敵をも敬い、時に死を覚悟し、最後まで「一人でも多くの国民を生かす」ために闘いました。その姿勢は、現代の私たちにも「真のリーダーシップ」とは何かを問いかけています。
歴史は過去のものではありません。混迷の時代にこそ、鈴木貫太郎の“死相感”と“生きざま”が、私たちの胸に響くのではないでしょうか。