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9/10(水)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/09/10
「ジャズの帝王」と呼ばれるミュージシャン、マイルズ・デイヴィス(Miles Dewey Davis III, 1926–1991)。その肩書きは決して誇張ではない。40年以上にわたる活動の中で、彼は常にジャズの最前線に立ち、時代ごとに新しいサウンドを提示し続けた。クラシック音楽やロック、さらにはヒップホップにまで影響を与えたその軌跡は、単なる一人のトランペット奏者の物語を超えて、「音楽史そのもの」と言っても過言ではない。
マイルズは1926年、アメリカ・イリノイ州の裕福な家庭に生まれた。父は元々音楽家を志望しており、母はピアノとヴァイオリンを弾きこなし、教会でオルガンの教師をしたこともあり、音楽が常に身近にある環境で育った。10代でトランペットを手にし、マイルズはめきめきと頭角を現す。高校卒業後は名門ジュリアード音楽院に進学したが、彼が求めていたものは教科書通りの理論に基づく音楽ではなかった。ニューヨークのナイトクラブで蠢(うごめ)く生の音楽――すなわち「ビバップ」と呼ばれる新しいジャズだったのである。
そして18歳のとき、ビバップの旗手チャーリー・パーカーと出会う。パーカーの圧倒的な即興演奏に魅了されたマイルズは、ほどなくジュリアードを中退し、彼のバンドに加入。ここから、マイルズの伝説が始まる。
しかし、演奏を重ねるにつれ、超絶技巧を競うビバップのスタイルに違和感を抱き、マイルズは自身の抑制的な音色や中音域が活きる道を模索する。アレンジャーのギル・エヴァンズ(彼とは後にも共作を重ねることになる)やジェリー・マリガンらと研究を重ね、余白やアンサンブルを重視する新たなスタイルを追求。そして、1949年、 マイルズは『クールの誕生』を発表する。
これはビッグバンドに近い編成を用いながらも、軽やかで洗練されたサウンドを生み出した画期的な作品だった。従来のジャズが持っていた熱気や勢いとは一線を画し、より都会的でモダンな響きを持っていたため、「クール・ジャズ」と呼ばれる新しい潮流の出発点となった。そしてこの「クール・ジャズ」は、多くの白人ミュージシャンにこぞって演奏に取り入れられたのだった。
ここで注目すべきは、マイルズがすでに「時代の音を変える存在」として頭角を現していたことだ。マイルズは常に既存のスタイルに満足せず、次なる音を模索し続けていたのである。
1950年代半ば、マイルズはプレスティッジ・レコードで4枚のアルバムを立て続けに録音した。『クッキン』『リラクシン』『ワーキン』『スティーミン』と呼ばれるこれらの作品は、短期間に一気に録音されたことから「マラソン・セッション」と呼ばれている。
これらのアルバムは、後に「黄金のクインテット」と呼ばれる布陣――ジョン・コルトレーン(テナーサックス)、レッド・ガーランド(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラム)――を擁したものだった。
ここで聴けるのは、シンプルでありながら深みのあるマイルズのトランペットの音色だ。彼は決して派手に吹きまくるのではなく、余白を大切にしながら必要最小限の音で強烈な印象を残す。まるで「沈黙の中から音を掘り起こす」ような演奏スタイルは、この頃から確立されていた。
1956年、マイルズは大手レーベルCBSと契約し、『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』をリリースする。マイルズの代表的な演奏スタイルを確立した作品だった。
ここでのマイルズは、耳をつんざくようなミュート・トランペットで、夜の都会を思わせるようなクールで美しい音色を響かせる。一方で、後にフリー・ジャズの旗手となるコルトレーンが対照的に激しいソロを展開し、緊張感のあるコントラストを生み出していた。
1957年、フランス映画『死刑台のエレベーター』の音楽を担当。パリの夜、スタジオに集まったマイルズと仲間たちは、なんとスクリーンに映し出されるラッシュ映像を見ながら即興で演奏したという。結果としてそこに生まれたサウンドは、モダンで都会的、そして妖しい雰囲気を漂わせ、映画音楽の歴史に残るほどの名演として語り継がれている。
このセッションには、マイルズの「その場の空気を音楽に変える力」が存分に発揮されている。彼にとって音楽とは常に「今この瞬間」の芸術だった。
1959年、歴史的名盤『カインド・オブ・ブルー』を発表。これは、教会旋法にヒントを得た、モード・ジャズと呼ばれる新しいアプローチを全面的に取り入れ、コード進行に縛られない自由な即興演奏を実現した作品だ。
このアルバムには、コルトレーン、キャノンボール・アダレイ(アルトサックス)、ビル・エヴァンズ(ピアノ)ら名手が参加している。全編に漂うクールで神秘的な響きは、ジャズに馴染みのないリスナーをも魅了し続け、今日では「世界で最も売れたジャズアルバム」として広く親しまれている。
1960年代半ば、マイルズは新たなクインテットを結成。ハービー・ハンコック(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムス(ドラムス)――そして、ここで中心となったのがマイルズが待ちに待ったサックス奏者ウェイン・ショーターだった。ショーターは独自の作曲と即興演奏のセンスを持ち込み、マイルズ・バンドに新しい方向性を与えた。
その最初の記録が1964年の『マイルズ・イン・ベルリン』である。ここからマイルズは、より実験的な試みを始め、新たな音楽の創造へとさらに突き進んでいくことになる。
1970年、『ビッチェズ・ブリュー』をリリース。ロックやファンクのリズムを大胆に取り入れ、エレクトリック楽器を駆使したこの作品は、当時のジャズ界に衝撃を与えた。「ジャズ・ロック」「フュージョン」と呼ばれるジャンルの扉を開いたこのアルバムは、ビートルズやジミ・ヘンドリックスと並んで語られる20世紀音楽の革命のひとつである。
続く『オン・ザ・コーナー』や『ジャック・ジョンソン』では、さらにファンクや黒人の音楽文化を取り込み、熱くうねるようなグルーヴを展開した。これらの作品は当時の批評家から酷評されたが、後にヒップホップやクラブ・ミュージックのアーティストたちに再評価され、「未来を先取りした音楽」として位置づけられている。
1970年代半ば、マイルズは体調悪化や薬物問題から音楽活動を休止する。しかし1981年、アルバム『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』で華々しく復活を果たした。再びステージに立った彼は、エレクトリックな音楽を軸にしながらも、常に新しい試みに挑戦し続けていった。
晩年にはプリンスなどのポップ・ミュージシャンとも交流し、さらにはヒップホップのプロデューサー、イージー・モー・ビーと組んで『ドゥー・バップ』を完成させる。これはマイルズの遺作となり、1991年、彼は65歳でその生涯を閉じた。
マイルズ・デイヴィスが「ジャズの帝王」と呼ばれる理由は、そのトランペットの音色の美しさだけではない。彼は常に時代を先取りし、音楽の進むべき方向を指し示してきた。クール・ジャズ、モード・ジャズ、フュージョン――そのどれもが彼によって革新され、次の世代へと受け継がれていった。
さらに彼の人柄もまた魅力的だった。無口で気難しく、時に冷たくも見える一方で、若手の才能を見抜き、彼らに大きなチャンスを与えてきた。コルトレーン、ショーター、ハンコック、チック・コリア、ジョン・マクラフリン……数えきれないスターたちが、マイルズのバンドから羽ばたいていったのである。
マイルズ・デイヴィスの音楽は、今聴いてもなお古びない。それは彼が常に「次」を見据え、過去に安住しなかったからだ。彼にとって音楽とは、絶えず変わり続ける生命のようなものだったのだろう。
その姿勢こそが、「ジャズの帝王」という呼び名にふさわしい。マイルズ・デイヴィスは、ジャズの歴史を変えただけでなく、「音楽とは何か」という問いを、今も私たちに投げかけ続けている。