
時代を超える功績——紙幣の顔に選ばれ続けた聖徳太...
10/1(水)
2025年
SHARE
ビジョナリー編集部 2025/10/01
岩倉具視は、下級の公家の家に生まれ、常識にとらわれない行動力と決断力で日本の近代化を進めた人物です。岩倉の人生は、逆境を乗り越えるために大事なことを教えてくれます。
1825年、京都の堀河家に生まれた岩倉具視は、公家でありながら、町人のようなふるまいをしていました。和歌や蹴鞠よりも、将棋や賭け事に夢中で、その自由な行動は堅苦しい貴族社会の中で目立っていました。そのため、幼名は「周丸」でしたが、まわりからは「岩吉」という庶民のような名前で呼ばれていました。
13歳のある日、友人に「授業を休んで将棋をしよう」と誘い、「古文よりも実際に頭を使って考えることの方が将来役に立つ」と言いました。友人に咎められても、「必要なことはもう分かった」と自信満々に笑ったそうです。これを見ていた伏原宣明は、「この子は天才だ。ぜひ養子にしてはどうか」と岩倉具慶にすすめました。このことがきっかけで、岩倉家の養子になりました。
さらに14歳のとき、「具瞻(ともみ)」という新しい名前をもらいましたが、「漢字が難しすぎる」と養父に直接頼み、書きやすい「具視」に変えてもらいました。公家社会では遠まわしな言い方が良いとされていましたが、岩倉は自分の気持ちをはっきりと伝えることを恐れませんでした。
下級公家の家計は厳しく、賭け事で生活費を稼いでいたという話もあります。普通では考えられないことですが、岩倉ならと思わせるのも、それだけ岩倉には型にはまらない凄さがありました。
幕末、黒船がやってきて日本が大きく揺れていた時代、岩倉は権力者・鷹司政通の弟子となり、和歌を学びました。しかし、本当の目的は和歌ではなく、開国を迫られる中で、のんびり和歌を楽しんでいる場合ではないと危機感を持っていました。岩倉は鷹司に近づき、表舞台で活躍するために弟子となったのです。
このころ、薩摩藩の大久保利通も同じように下級藩士から成り上がろうとしており、2人は後に協力して日本の未来を変えていきます。
やがて岩倉は、侍従として朝廷に仕えるようになります。彼が策士として有名になったのは、日米修好通商条約の批准をめぐる「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれる抗議運動です。侍従でありながら、88人もの公家を動かして、老中・堀田正睦に条約反対をつきつけました。
「今こそ変わらなければ国が滅びる」と、時には強引に周りを動かし、自分の理想を通そうとした岩倉は、「変化を恐れずに行動するリーダー」そのものでした。
岩倉が特に活躍したのは、公武合体の実現に奔走したときです。岩倉は朝廷内の反対を押し切り、孝明天皇の妹・和宮と徳川家茂の結婚を成功させました。さらに幕府が和宮を利用して廃帝を考えているという噂についても、噂が立つこと自体が悪いことだと認めさせ、将軍家茂の直筆で二度とないように誓書を出させました。将軍自らの誓書は家康以来であり、朝廷の力を取り戻すきっかけとして、孝明天皇もとても喜んだと言われています。
しかし、尊王攘夷の動きが強くなってくると、幕府と協力する公武合体で動いた岩倉は、幕府側だと疑われ命を狙われるようになりました。朝廷からも遠ざけられ、しかたなく出家して、京都郊外の岩倉村で5年もの間、隠れて暮らすことになりました。
それでも岩倉は、薩摩や長州の志士たちと密かに連絡を取り合い、情勢の変化をじっくり見ていました。公武合体が無理だと判断すると、すぐに倒幕に方針を変えます。これこそ、時代や状況に合わせて自分のやり方を柔軟に変える力です。
1867年、徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉は政界に戻ります。ここから、岩倉の策士としての能力がさらに発揮されます。
王政復古の大号令で追いつめられた幕府軍は京都へ進軍し、新政府軍と戦います(鳥羽・伏見の戦い)。この時、岩倉は隠遁生活の間に、天皇の軍を示す「錦の御旗」をひそかに作っておき、新政府軍に持たせました。何百年も使われていなかった旗なので、幕府側には本物かどうかわかりませんでしたが、天皇の軍であるという象徴が幕府軍の士気を失わせ、総崩れとなりました。心理戦によって歴史を動かしたのです。
岩倉は明治政府の中心となって、版籍奉還や廃藩置県など、日本の近代化を進めました。特に有名なのは1871年の岩倉使節団です。自ら特命全権大使として欧米を見て回り、鉄道や憲法などのアイデアを日本に持ち帰りました。本来は不平等条約の改正を目指していましたが、欧米との文明の差に大きなショックを受け、まずは日本を変えることが大事だと考え直しました。
岩倉は次のような言葉を残しています。
「成敗は天なり、死生は命なり、失敗して死すとも豈後世に恥じんや」
「成敗は天なり」とは「成功するか失敗するかは天命に委ねられている」。
「死生は命なり」とは「生死をコントロールすることはできない」。
「失敗して死すとも豈後世に恥じんや」とは「信念に基づき全力で行動すれば、失敗しても後世に恥じることはない」という意味です。
幕末から明治維新という激動の時代に、失敗を恐れず行動した岩倉の強い覚悟が伝わってきます。もし挑戦がうまくいかず命を落とすことになっても後悔しない――この強い気持ちが、岩倉を天才策士たらしめたのです。
岩倉は、時代や環境に合わせて柔軟に考えを変え、最後まで国の未来のために自分の信念を貫きました。今の私たちも、変化の激しい時代を生きています。計画通りにいかないことや、思いがけない困難、周りからの反発や誤解に悩むことは、誰でも経験することです。だからこそ、岩倉具視のように自分の頭で考え、失敗を恐れず行動する覚悟を持てば、きっと道は開けます。