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2025

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    「自分は赴任の前、すでに一命は国家に捧げているのであるから、爆弾などは怖いと思わぬ。」――第30代内閣総理大臣・斎藤実、その信念と波乱の生涯

    「自分は赴任の前、すでに一命は国家に捧げているのであるから、爆弾などは怖いと思わぬ。」――第30代内閣総理大臣・斎藤実、その信念と波乱の生涯

    「自分は赴任の前、すでに一命は国家に捧げているのであるから、爆弾などは怖いと思わぬ。」

    この言葉を読んで、あなたはどんな人物像を思い浮かべるでしょうか。時代の荒波を生き抜き、国政の最前線で幾度も死線をくぐった男。第30代内閣総理大臣・斎藤実は、まさにその象徴的存在です。

    戦前日本の激動期にあって、軍部と政治、そして国際社会との間で揺れ動いた斎藤実。その人生をたどることで、現代の私たちにも通じる「信念を持ち、困難を乗り越える力」のヒントが見えてきます。

    名門の生まれと、海軍への道

    斎藤実は1867年、旧陸奥国水沢(現在の岩手県奥州市)に生まれました。武士の家系であり、父は明治維新後に警察官となった人物です。

    幼少期から厳格な家庭で育ち、勤勉さと誠実さを身につけていきます。明治の新しい時代、欧米の文化や技術が急速に流れ込む中、斎藤は西洋の軍事と科学に魅了され、やがて海軍兵学校へ進学。ここで、後の海軍を支える「三秀才」の一人として頭角を現します。

    日露戦争での躍進と、海軍改革の先導

    斎藤が本格的に歴史の表舞台へ登場するのは、日露戦争前夜のことです。1898年、山本権兵衛海軍大臣のもとで海軍次官に就任。二人三脚で海軍の近代化に取り組みました。

    例えば、士官の海外留学の奨励や、国内の製鉄・造船所の充実、さらには艦上での食事改善など、地道で実務的な改革を積み重ねていきます。これらの改革は、後の日露戦争での勝利を大きく後押しし、日本海軍の地位向上に貢献しました。

    「私は決して偉い人間でも何でもないんだ。まったく凡人に過ぎない。ただ何事も一生懸命努力してやってきたつもりだ。」

    斎藤の歩みは「地道な努力」と「周囲からの信頼」に支えられていました。

    シーメンス事件――挫折と復活

    1914年、斎藤にとって最大の試練が訪れます。いわゆる「シーメンス事件」、ドイツのシーメンス社が日本海軍の高官に賄賂を渡していた事実が発覚し、世間は海軍の腐敗を糾弾しました。

    当時、斎藤は山本権兵衛内閣の海軍大臣でした。直接的な関与はなかったものの、海軍のトップとして責任を問われ、辞職。山本首相もともに政権を退くことになります。

    この事件は、軍部と政界の癒着という日本社会の深い問題を浮き彫りにしました。しかし、斎藤は数年後に再び公職の場へと返り咲くのです。

    朝鮮総督としての信念と実行

    1919年、斎藤は第三代朝鮮総督に任命されます。ちょうど三・一独立運動が起きた直後の混乱の中、彼は新しい統治方針を打ち出しました。

    着任早々、斎藤は爆弾を投げつけられるという事件に遭遇します。にもかかわらず、彼はまったく動じませんでした。冒頭の名言はこのとき生まれたものです。

    「自分は赴任の前、すでに一命は国家に捧げているのであるから、爆弾などは怖いとは思わぬ。また、爆弾事件があったからといって、統治方針を変えるなどということは断然せぬ」

    斎藤は言論の自由や朝鮮文化の尊重、さらには憲兵警察の廃止といった文化政治(文治政治)を推進しました。宗教課を新設し、キリスト教や天道教などとの対話も行い、民族間の融和を図る姿勢を示しました。

    彼の統治下で、朝鮮社会の安定や文化の保護、教育機会の拡大が進みました。一部には植民地支配への批判も残るものの、当時の専門家からは「公明正大で寛容な施政」「現地住民の信頼を得た」と高く評価されています。

    総理大臣へ――五・一五事件後の重責

    1932年、五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、日本は深刻な国家的危機に陥ります。このとき、斎藤実が第30代内閣総理大臣に指名されました。

    当時の日本は、昭和恐慌からの傷が癒えず、農村は困窮し、軍部と政党・官僚の対立が激化していました。斎藤は「挙国一致内閣」を組織し、政友会・民政党・軍人・官僚を広く取り込み、国家の安定を図ります。

    満州事変と国際連盟脱退――外交と軍部のはざまで

    斎藤内閣の時代、日本は満州事変をきっかけに国際社会から厳しい批判を受け、1933年には国際連盟脱退という歴史的決断に至ります。

    当初、日本は欧米列強との協調外交を重視していましたが、軍部の台頭と満州国承認の問題で国内外のバランスが崩れていきます。国際連盟のリットン調査団が日本の行動を侵略と認定し、日本は連盟で孤立。斎藤内閣は軍部の意向を背景に、国際連盟脱退を受け入れざるを得ませんでした。

    この決断は、以降の日本が国際社会から孤立し、軍国主義へと向かう大きな転換点となります。斎藤自身は、最後まで軍部と政党政治の調和を目指し、国内の安定を図ろうと努力しました。

    帝人事件と内閣総辞職

    斎藤内閣は、高橋是清による積極財政によって農村救済や土木公共事業を進め、国民の自力更生をスローガンに掲げました。しかし、やがて「帝人事件」という政財界を巻き込む疑獄事件が発生します。

    内閣メンバーの多数が起訴され、政権は大きく揺らぎました。後に全員無罪となりますが、これは内閣を潰すための一種の陰謀であったとも言われています。結果的に、斎藤内閣は総辞職を余儀なくされました。

    最期の時――二・二六事件での死

    1936年2月26日、陸軍の青年将校らがクーデター未遂事件(二・二六事件)を起こします。斎藤邸は150名以上の兵士に取り囲まれ、斎藤は壮絶な最期を遂げました。

    その体には数十の銃弾と刀傷が残されていたといいます。昭和天皇はこの暴挙に激怒し、速やかな鎮圧を命じました。この事件は、政党政治の終焉と日本の軍国主義化の加速を象徴する出来事となります。

    まとめ――「国家に命を捧げる」という覚悟の重み

    時代の転換点で、何度も命を狙われながらも、斎藤実は決して信念を曲げることはありませんでした。彼の「爆弾などは怖いと思わぬ」という言葉には、国家や社会のために尽くす者の覚悟が宿っています。

    どんな時代でも、困難を前にしても、最後は人間の「信念」と「覚悟」が未来を切り開く――。斎藤実の生涯は、そのことを強く物語っています。

    あなたも、ふと迷いや恐れを感じた時、彼の言葉を思い出してみてはいかがでしょうか。きっと、前に進む勇気が湧いてくるはずです。

    #斎藤実#歴史に学ぶ#リーダーシップ#信念#逆境を乗り越える#名言#日本の歴史

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