
19歳で歴史を動かした少女ジャンヌ・ダルク――ビ...
8/21(木)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/08/19
「杉田玄白」と聞いて、あなたはどんなイメージを持つでしょうか?
歴史の教科書で「解体新書」の名前とともに登場した医師。江戸時代の蘭学者。もしかすると「偉人だけど、現代の自分には関係なさそう」と思うかもしれません。しかし、現代ビジネスにも直結するヒントが、玄白の生き方や考え方には詰まっています。
未知への果敢な挑戦力、チームで成果を生む協働力、そして知見を惜しまず次世代に伝える教育力。どれも、変化の激しい現代ビジネスで求められる力そのものです。
この記事では、杉田玄白の生涯と功績を紐解きながら、彼の思考法がいかにビジネスパーソンの武器になるのか――そのエッセンスを具体的にご紹介します。
杉田玄白は、1733年に江戸に生まれ、父も医師という家系に育ちました。彼が若くして興味を持ったのは、当時日本の主流だった漢方医学ではなく、西洋の最先端医学でした。
21歳の時、日本初の人体解剖を行った医師・山脇東洋の報告に衝撃を受け、自らも人体の仕組みを自分の目で確かめたいと強く願います。町医者として独立した後、江戸の大都市で様々な人と交流し、博学な発明家・平賀源内ら知識人たちと刺激し合いながら、知見を深めていきました。
転機が訪れたのは39歳。
後輩医師の中川淳庵が、オランダ語で書かれた医学書『ターヘル・アナトミア』を手に入れます。精密な解剖図を見て欲しくなり、自ら藩に掛け合い、高価な本をどうにか購入します。
『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業は困難を極めます。
頼れるのは質の低い辞書と、唯一オランダ語が少し分かる前野良沢の知識だけ。専門用語も皆無に等しい中、図と文脈を頼りに一行一行訳し続け、4年かけて翻訳を完成させます。
1774年に『解体新書』として出版。
内容も用語も日本初づくし。「神経」「軟骨」「盲腸」など、今も使われる言葉は、彼らがこのとき生み出したものです。
この本がきっかけとなり、西洋医学は全国に広がり、近代医学の扉が大きく開かれました。
杉田玄白の最大の特徴は、自分にできないことへの徹底した挑戦心です。当時、オランダ語どころかアルファベットも知らない玄白が、世界最先端の医学書を訳そうと決意した――これは現代でいえば、未経験の分野に飛び込むスタートアップ精神そのものです。
杉田玄白は、単なる翻訳者でも研究者でもありませんでした。町医者として、江戸の町で1,000人以上の患者を診察し、手に入れた知識を現場で使い、実践を通じて医学の精度を高めていきました。また、教育者として、私塾「天真楼」を開き多くの弟子を育てました。
当時の平均寿命が45歳ほどの中で、杉田玄白は85歳という長寿を全うしました。その背景には独自の健康哲学があります。
これは、現代でいう「セルフマネジメント」や「ウェルビーイング」にも通じるものです。特に「過去や未来にとらわれず、今を大切にする姿勢」は、ストレス社会を生き抜くビジネスマンにとっても大きなヒントになるでしょう。
杉田玄白が体現したのは「できないことに挑む勇気」「知識を現場で価値に変える行動」「学びや経験を周囲に伝える力」でした。これらは、どのような時代や業界であっても、ビジネスマンにとって普遍的な武器です。
「前例がない」「自分には無理」「完璧でなければ意味がない」
そのような思い込みを捨て、まずは一歩踏み出してみてください。
杉田玄白が「解体新書」を世に出したあの一歩が、日本の医学と社会を大きく変えたように、あなたの行動も必ず新しい未来を切り拓くはずです。