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役者魂に目覚めて早稲田大学へ
三木 明博 2025/10/03
中学3年を迎え、高校進学を考える時期になりました。当時、私が住んでいた地域は「7.8.9学区」と呼ばれる学区でした。都心には日比谷高校や西高校といった名門校がありましたが、立川から八王子、町田までを含む広大な学区では、立川高校がトップでした。
当時、学区のトップは立川高校、次いで国立高校、そして私が進学した町田高校が三番手といったところでした。正直なところ、あまり勉強に身を入れていませんでしたが、無事に都立の町田高校に入学することができました。
私立という選択肢もありましたが、父は普通のサラリーマン。大阪の実家からの資産もなく、男ばかり5人の子どもを大学まで行かせるのは並大抵のことではなかったはずです。親のおかげで金銭的に苦労した記憶はありませんが、それでも高校は公立へ行くのが当たり前の時代でした。
昨今、親の年収が子の教育に影響するという話がよく出ますが、当時からその現実はありました。大学で出会った地方出身の友人には、「町からの唯一の早大生だから、旗を振って駅で見送られた。名を成すまで田舎には帰れない」と、並々ならぬ覚悟で上京してきた者もいました。また、「俺の町では大学へ行ったのは1人しかいなかった、俺だけだ」という友人もいました。
東京で育ち、大学進学が当たり前だと思っていた私には、彼らの背負うものの重さが、すぐには理解できませんでした。「そんなことないだろう。べつに帰ればいいじゃないか」と言ったのです。すると、「いや、それはお前には分からない。東京で育った人間には分からない」と。今この歳になって、その気持ちが少し分かるような気がしています。
当時の大学進学率は全国平均で30%に満たず、特に地方から東京や大阪の大学へ進む人はごくひと握りでした。そう考えると、私たち兄弟は親のすねをかじり、随分と恵まれた環境にいたのだと改めて感じます。
そんな恵まれた状況にもかかわらず、ある日私は父に「大学へは行きたくない」と宣言し、烈火のごとく怒らせてしまいました。きっかけは、少し気になっていた女の子からの誘いでした。「男子部員がいないから」と頼まれて演劇の舞台に立ったところ、これが思いのほか面白く、観客の前で演じることの快感に目覚めてしまったのです。「これだ!」と直感した私は、役者になることを決意し、受験勉強を放り出し、父にその思いを伝えたのでした。
しかし、父は明治生まれの厳格な人間です。「浮草稼業など言語道断だ!」と、ものすごい剣幕で怒鳴られました。学費を出してもらっている身ですから、返す言葉もありません。見かねた母が、「お父さんがあれほど怒っているのだから、大学だけは行きなさい。卒業して、それでもやりたかったら、その時にもう一度挑戦すればいいじゃない」と、優しく諭してくれました。
母の言葉に、私も一度は思いを収めることにしました。しかし、そこから慌てて受験勉強を再開したものの、数学Ⅲなどは手も足も出ません。国立大学は早々にあきらめ、「役者になるなら、劇団も俳優も一番多い早稲田大学だ」と考え、目標を定めました。
幸いにも、早稲田大学に合格しました。数学が必須ではない法学部か商学部を選んだのは、万が一役者の道が駄目でも、弁護士か公認会計士の資格を取れば食べていけるだろう、という安易な計算もありました。そして入学するやいなや、念願の演劇部に入部します。
そこには、後に有名になる人々が数多くいました。先輩には田中角栄元首相のお嬢さんである田中眞紀子さんや、久米宏さんがいたそうですし、後輩には村上弘明くんもいました。そして、私の同期として劇団で一緒に活動していたのが、俳優の佐藤B作です。
芝居が終わると、福島なまりがひどい彼の下宿先によく泊まりに行き、二人で語り合ったものです。私が彼のアクセントを直してあげるのが常でした。今でも忘れられないのは、初めて役をもらった時のことです。新人だった私はオーディションを受けることになり、私もB作も、小さな役を手にすることができました。私が少年船員、B作がラーメン屋の店員という役です。
ところが、蓋を開けてみると私のセリフは、たった二言だけ。一方、あれほど訛っていたB作のセリフは10近くもあったのです。これには大きなショックを受けました。「なぜだ!」と、悔しい思いでいっぱいになりましたが、そんな彼とは今でも親しく付き合っています。
写真提供:
著者名:早稲田大学歴史館
タイトル:WASEDA 1974-1977 2023年度寄贈佐瀬雅行氏撮影写真
掲載サイト:早稲田大学歴史館
更新日:2024年5月16日
URL:https://www.waseda.jp/culture/archives/news/2024/05/16/5237/


