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2025

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    見知らぬ土地を転々とした幼少期

    見知らぬ土地を転々とした幼少期

    私の本籍は東京ですが、あまり人には話していないことがあります。実は、私の父の実家は大阪の船場で「萬年屋」という大きな金物問屋を営んでいました。祖父が兄弟で興した店で、父はよく「うちは長者番付に載るほどだった」と自慢していましたが、残念ながらその資産は一つも残っていません。

    そのため、父は比較的裕福な幼少期を過ごしたようです。ところが、祖父が40代半ばで急逝したことで事態は一変します。ひと揉めの末、父は祖母とともに家を追い出される形になってしまいました。そして父は、祖母を養うために大学を中退し、国鉄に就職しました。技術者としての道を歩み始めたのです。

    私には5人の兄弟がいますが、実は上の2人と下の3人では母親が違います。大学生になるまで、私に異母兄弟がいることを全く知りませんでした。長兄とは16、7歳も年が離れており、私が幼い頃はすでに東京の大学生でしたから、まるで叔父のような存在でした。年の差が大きいなとは感じていましたが、特に疑問に思うことはありませんでした。

    しかし、大学生になって戸籍謄本を取り寄せたとき、見慣れないバツ印がついていることに気づきました。母に尋ねても口を閉ざすばかり。「なぜ話してくれなかったんだ」と問い詰め、初めて自分が異母兄弟であることを知ったのです。今思えば、その事実を全く感じさせずに育ててくれた母は本当に偉大だったと感じます。どれほど苦労したことでしょう。上の兄たちの母親は、身体が弱く病気で亡くなったと聞いています。

    父は技術者だったため、徴兵を免れました。父がその理由を語ることはありませんでしたが、おそらく自分が戦地へ行けば残された家族が生きていけないと考えたと、私は推測しています。父にとっては、口外したくない想いがあったのかもしれません。

    母は、鳥取県米子(よなご)市の出身です。戦争が激しくなり、東京の空襲がひどくなったため、私たちは母の故郷である米子へ疎開することになりました。そういった経緯で、私の出生地は米子なのです。

    幼心にぼんやりと記憶していますが、米子には坂内家という大変な資産家がいました。「ここからあそこまで、全部坂内家の土地だよ」と人々が指さすほどの豪邸でした。後に放送業界で坂内氏に出会ったとき、こんなやり取りがありました。

    「三木さんは米子生まれなんですよね」 「生まれただけだよ」と私がそっけなく答えると、「どうしてそんな嫌がるようなこと言うの」と返されました。 「君の家のことは覚えているよ。坂内家というすごい家があって、私が小さい頃にテレビがあったのは君の家だけだった。大きなテレビで、坂内祭という催しまであったじゃないか」 そう言うと、彼は「うちの土地を通るだけで、東京まで行けますよ」と笑うので、「嘘つけお前」と。こんな掛け合いをしたものですが、それくらい広大な土地を持つ、昔ながらの資産家だったのでしょう。昔の資産家というのは、本当に桁が違います。

    戦時中の疎開ですから、住まいは母の実家だったか、それに近いような古い家でした。表通りに面した家の裏手にある、細長い造りの住まいで、真ん中に共同の井戸があった光景を今でもおぼろげに覚えています。

    近所の子どもたちと集まってガキ大将のように遊んでいた頃、父が勤める国鉄が社宅を建設しました。当時は平屋の小さな家がほとんどだった時代に、鉄筋2階建ての、今でいう団地のような建物でした。驚いたことに、まだ珍しかった水洗トイレと内風呂まで完備されていました。「さすが国鉄はすごいな」と感心し、私たち家族はその新しい社宅へ引っ越しました。

    その社宅での暮らしにも慣れた頃、父は常々こう口にしていました。「このままではいけない。お前たちは東京へ出るべきだ」。その言葉通り、私たちは再び引っ越しを決め、東京へ向かうことになったのです。

    この時、子どもにとって引っ越しがいかに大変なことかを痛感しました。生まれた土地でできた友だちと別れ、社宅に移ったときも幼稚園が変わり、友だちが一人もいないところからのスタートでした。小学校に入学してようやく友だちができたと思ったら、今度は東京への転校です。またしても友だちはゼロ。言葉に強い訛りはなかったものの、どこか地方出身であることに引け目を感じていたのかもしれません。慣れない環境で、友人もいない。自分らしさを出せずにいた時期が続き、中学時代まで苦労した記憶があります。そのためか、中学校生活にはあまり色鮮やかな思い出がありません。

    私たちが移り住んだのは、小田急線の玉川学園前駅、住所で言えば東京都町田市です。しかし、私の抱いていた「東京」のイメージは世田谷区や港区といった都心でしたから、「なんだ、ここは郊外じゃないか。米子とあまり変わらない」と、がっかりしたのを覚えています。新しい学校の同級生たちからは「お前の家は多摩川の向こう側、『川向こう』だな」などとからかわれ、悔しい思いをしたことがあります。

    #三木明博#文化放送#radiko#ラジコ#ワイドFM

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