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2025

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    劣等感から猛勉強、アメリカ留学を経て大学へ

    劣等感から猛勉強、アメリカ留学を経て大学へ

    私の父は、戦後のこれからは「英語の時代」だと考え、小学校入学前から私にアルファベットを教えてくれました。その影響もあり、私は早くから英語に興味を持ちました。

    そして中学入学前の春休み、最大の転機が訪れます。当時、学年でトップを争う従兄弟が大学生だった家に2週間ほど滞在し、集中的に勉強しました。その結果この2週間で、中学1年で習うはずの英語と数学をすべて終えてしまったのです。おかげで、中学に入ると授業内容はすべて理解でき、試験では当然のようにトップでした。この成功体験が面白くて、常に1年先の勉強をするようになっていました。

    しかし、私が当時住んでいた岐阜県中津川市という田舎は、都市部に比べて教育レベルが低いという側面がありました。中学2年を終えた春に、父の転勤で東京へ引っ越すことになり、杉並区立富士見ヶ丘中学校へ転入したのですが、そこで受けたショックは、今でも鮮明に覚えています。岐阜では学年トップだった私が、東京の学校ではクラスの真ん中くらいの成績だったのです。そのレベルの違いに愕然とし、悔しくて家で泣きました。そこから、その劣等感をバネに、死に物狂いで勉強に打ち込み始めました。その結果、1年で成績のギャップを埋め、学年でトップ5に入るまでになりました。そして、当時の難関校であった東京都立西高等学校に入学することができました。東大合格者数が全国で3番目という、大変なエリート校です。

    晴れて西高校に入学したものの、周囲の雰囲気に馴染めませんでした。皆がガリ勉で、競争相手という意識が強く、ゆとりがない。私は半ばひねくれる形で勉強から距離を置き、野球部と陸上部で体を鍛える日々を送っていました。ただ、唯一継続して真剣に取り組んだのが英語です。私は英語部(ESS: English Speaking Society)に入り、そこで先輩からAFS(アメリカン・フィールド・サービス)という高校生のための留学制度の話を聞きました。これはアメリカの高校に1年間留学できるプログラムで、「これは素晴らしい」と直感し、すぐに受験しました。結果、プログラムに合格し、高校3年の1学期を終えた8月、アメリカへ旅立ちました。当時の合格者は、東京で20人程度、全国でも120〜130人という難関だったと記憶しています。

    留学先は、シカゴから西に100kmほど入った、イリノイ州のサンドイッチという、人口4,000人ほどの典型的な中西部の農村でした。周りはトウモロコシ畑が広がるド田舎。そこで暮らす唯一の日本人として生活を始めました。その町は、典型的な中西部の白人社会でした。住民の7割ほどが北ヨーロッパ出身者の子孫で、黒人やアジア系の移民はほとんどいない環境です。

    実は、このような中西部の農村は、トランプ氏の熱狂的な支持基盤となっている場所です。彼らは心の底に白人至上主義的な感情を抱いていますが、それを表立っては言えない。そこにトランプ氏が「アメリカ・イズ・グレート」だと代弁してくれることで、熱狂的に支持するのです。当時の私も、「アメリカは世界一の国だ」と心から思っている彼らの熱を感じていました。ただ幸いにも私が現地で受け入れられたのは、町全体がお金を出して招待した特別なゲストだったからです。ロータリークラブやライオンズクラブなどに招待され、日本に関するスピーチを求められることも多く、人前で話す機会が増えました。

    当初の半年間は英語がうまく話せませんでしたが、周りに日本人が誰もいない環境では、英語を話さざるを得ません。そのおかげで耳が慣れ、中西部の標準的なアクセントを習得することができました。留学先の中西部は、アメリカの「標準語」とされるアクセントですが、地域が変わると言葉も一変します。例えば、ニューヨークへ行くと母音が強くなる傾向があり、ボストンへ行くとブリティッシュな響きが混ざります。一方、南部へ行くと、全体的に話すスピードが遅くなり、「It's mighty nice to see ya(お会いできてとても嬉しい)」のように、「Very」を「Mighty」に置き換える独特な表現に出会うこともありました。

    後の仕事で、その言葉の多様性を活かす場面がありました。例えば、当時FedExの会長だったフレッド・スミス氏に会った際、現地のアクセントを真似て挨拶をしたら、彼は笑って「Perfectだ」と褒めてくれました。そのおかげで一気に距離が縮まり、インタビューがうまく運ぶ、ということがよくありました。

    そうしてアメリカで1年間を過ごし、高校3年の2学期から編入し、日本へ帰国しました。しかし、帰国したときには、国語、社会、理科といった受験に必要な科目の知識をすっかり忘れていたのです。東大のような、すべての科目の配点が平均的な大学では合格は難しい。そこで、私は一橋大学を目指すことにしました。一橋は、英語の配点が最も高く250点あり、数学は200点、その他の科目は100点ずつという配点でした。私にとって英語だけが頼りでしたが、受験の2週間ほど前に問題集を買いに行ったところ、なんとたまたま買った問題集に載っていた問題とそっくりな問題が、本番の試験に出たのです。そのおかげで、苦手な数学で7割ほど得点でき、英語は9割ほど取ることができました。他の科目はほとんどできませんでしたが、幸運にもこの2科目の点数だけで、合格をつかみ取ったのです。

    私立大学の受験は、親に経済的な負担をかけたくないという思いから、志願校を一橋大学一本に絞り、私立は一つも受けませんでした。まさにラッキーな合格でしたが、この報告に、両親は心から喜んでくれました。「最高の親孝行をしてくれた」と言ってくれた時の、父と母の顔は今でも忘れられません。

    #植山周一郎#ソニー#経営コンサルタント#コンサル#交渉人#代理人#ブランディング#マーケティング

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