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縁と運命に導かれたソニー入社
植山 周一郎 2025/12/05
以前、テレビ番組の企画でドナルド・トランプ氏と会った際、私はカメラマンを一人連れて行きました。彼が撮った白黒写真とは別に、私は自分のカメラでカラー写真を撮りましたが、案外上手く撮れていると思います。これはセンスの問題だと思います。私はよく、外国語の習得、料理、そして音楽の3つには共通のセンスがあり、それは教えられて習得できるものではない、半分以上は生まれつきだと考えています。7割が生まれつき、3割が努力でしょうか。うちの娘はチェンバロ奏者で、多言語を操り、料理や裁縫も好きで、私と本当によく似ています。
私の大学時代は、波乱に満ちていました。大学3年を終えた後、1年間休学して世界一周に出ました。当時、世界一周をする学生などいませんでした。1967年、私は一年のほとんどをドイツで過ごし、ある出版社の仕事で、日本のトップ20社ほどの財務諸表を分析し、「世界大企業年鑑」に掲載するためのフォーマットに落とし込む作業をしていました。当時、日本の企業が世界でようやく注目され始めた頃で、その基礎資料を作るという、貴重な経験をさせてもらいました。
滞在していたダルムシュタットは退屈な町でしたが、近くのフランクフルトや大好きなハイデルベルクにはよく足を運びました。そこで、フランス、デンマーク、オランダ、アメリカ、スコットランドなど、さまざまな国から来た留学生や駐在員と仲良くなり、しょっちゅうパーティーを開いていました。ドイツ語で会話を始めても、いつの間にか英語やフランス語が混ざり合い、頭の中がぐちゃぐちゃになるのですが、それがまた最高に楽しかった。ちょうど二十歳の頃です。
ところが、帰国して大学4年に編入した直後、災難が訪れます。突然の腹痛で倒れ、聖路加国際病院に運ばれ、精密検査の結果、潰瘍か癌かもしれないということで、すぐさま手術が必要になりました。幸いにも名医の先生のおかげで一命をとりとめましたが、そこから1カ月ほど、入院することになりました。
ちょうどその時期が入社試験のシーズンで、私は一社も試験を受けられませんでした。困り果てた母が、懇意にしていた本州製紙の会長夫人に頼み込んだところ、なんと日本航空(JAL)の人事部長が病院まで面接に来てくれるという話になりました。しかし、私は「そんな乞食みたいなことはしてくれるな」と、そのオファーを断ってしまいました。
とはいえ、天下の一橋大学商学部を出て、就職先がないというのは体裁がどうにも悪い。そこで私は、外資系に強い人材バンクIMCA(イムカ)へ行きました。給料の良い外資系企業を紹介してもらおうと思ったのですが、そこの社長が私にこう言いました。
「君、うちへ入れよ。うちは人材バンクだけでなく、多角化の一環として日本で初めてのスチュワーデス養成学校を作るから、そこの校長をやってくれ」――と。
他に行くところもなかった私は、「やってみましょうか」と、校長を引き受けました。
しかし入社してみると、「これは一生の仕事ではない」と感じ、3、4カ月ほどで退職することとなります。その後、新聞広告でソニーの求人広告が目に入りました。そこに書かれていたキャッチコピーは、「英語で啖呵(たんか)の切れる日本人求む」。これは俺のことだ、と思い、すぐさま応募したのです。
200人の応募者の中から、最終的に10人まで絞られ、最終面接は、社長の盛田昭夫さんご自身が行いました。盛田さんの言葉には、日本語でも英語でも独特の「盛田節」がありました。盛田さんは私に「君はアメリカとドイツに行っていたらしいが、ソニーに入ったらどこへ行きたいか」と尋ねました。私はあえて、「私は日本にいたいです」と答えました。「なぜだ」と聞かれると、「お寿司が大好きだからです。冷酒をピッと飲みながら寿司を食うなんてことは、日本でしかできません」と。すると、盛田さんは私を一喝しました。
「馬鹿野郎! 今回ソニーは、海外要員を募集しているんだ。君が日本にいて寿司を食ってちゃ困る。外国へ行くと約束してくれるか!」
これに私は怯むこともなく、「約束したら入れてくれますか」と聞き返すと、「入れてやる」と。その場で「じゃあ約束します」と答えた私は、面接の真っ最中に合格をもらってしまったのです。
入社後、盛田さんとは「あいつは面白い」ということで、とても可愛がっていただきました。すぐさま当時の専務で、後に社長となる岩間和夫さんのアシスタントも務めろという辞令が出され、外国部との両方の辞令を受け取りました。当時のソニーは急成長の真っ只中で、カセットテープの規格をフィリップスと提携して世界的な商品へと押し上げたり、デュポンから磁性粉を輸入してビデオテープを作ったりと、岩間専務が陣頭指揮を執る国際的な業務提携の交渉が目白押しでした。私の仕事は、それらの通訳をすべて担当することでした。
交渉の後は必ず、ソニーが持っていた銀座の「マキシム」で会食でした。「今晩もまたマキシムだね」と、美味しいステーキが出ました。私は双方向の通訳をしているので、食べる暇がないのですが、早食いを習得しながら通訳を捌いていく必要がありました。しかしその代わり、世界的な業務提携の話のすべてを、肌で感じることができたのです。
そんな濃密な日々を1年ちょっと過ごした頃、トイレで隣の外国部の次長に声をかけられました。
「おい、今度イギリスへ行ってもらうことになったからね」と。ソニーはトイレの中で人事発令するのか、と。その傑作なエピソードは、今でも笑って思い出します。


