「検討はやめて、まずやってみろ」——開業25周年...
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「勉強しろ」と言わない放任の教え——自己責任を育んだ三木の風土と、数字に強い父の背中
日覺 昭廣 2026/06/02
私は兵庫県三木市で、姉3人、妹1人の姉妹に囲まれて育ちました。末っ子の妹の一つ上の立場でしたが、長男だったこともあり、姉たちからも「お兄ちゃん」と呼ばれ、自然と責任ある立場として扱われていたように思います。
日覺家は江戸時代まではお寺だったそうですが、その後は跡地が残るばかりで、私の父が生まれた頃には個人商店を営む家系になっていました。
父は大正生まれで、戦後は果物や乳製品の卸業を営んでいました。私が幼い頃、父が近隣の50軒近い商店を自ら回り、汗を流して商売をしていた姿を鮮明に覚えています。
この父が、とにかく規格外の人物でした。身体能力が驚異的で、村でも数人しか担げないような俵3俵を一人で運ぶ怪力の持ち主でした。私自身も若い頃には、妻を背中に乗せたまま親指だけで腕立て伏せを100回したり、重さ60キロのバーベルを片手で持ち上げたりしていましたが、これも父親譲りのことだったのかもしれません。
しかし、私が最も父から影響を受けたのは、その筋力よりもむしろ「数字への強さ」だったかもしれません。父は暗算が非常に得意でした。商店に品物を卸す際、何種類もの商品の合計額を瞬時に弾き出し、その場で代金を請求するのです。
相手の店主が「おっさん、その計算は合っているのか?」と疑っても、父が「これはいくら、これはいくら。だから合計はこうなる」と論理的に説明すると、店主も「ほんまや!」と驚いて納得する。目の前の事実と数字をもとに相手を説得するプロセスを、私は幼心に父の背中から学んでいたのでしょう。
一方、母は非常にはっきりした性格で、地域の集まりでも仲間をリードするような賑やかな人でした。大変な読書家でもあり、私が小学生の頃には徳川家康の伝記を借りてきて読んでくれました。
当時の私は、本を読むよりも外で遊ぶ方が好きでした。字を書くことすら面倒に感じ、授業中もほとんどノートをとりませんでした。頭で考えるスピードに手の動きが追いつかず、走り書きになって後で読み返せなかったからです。母はそんな私を案じてか、自宅に近所の子供たちを集めて「そろばん教室」を開いてくれました。私が珠算1級を取得し、数字の基礎を固められたのは母のこうした配慮のおかげです。
両親の教育方針で特徴的だったのは、私を一切叱らなかったことです。「勉強しなさい」と言われた記憶もありません。姉たちが「お兄ちゃんの言うことばかり聞いて」と妬むほど、私は自由に育てられました。
ただし、父から生涯でたった一度だけ、烈火のごとく怒られたことがあります。小学校低学年の頃、食事の席でハエが飛んでおり、私はつい「ハエが止まったおかずは食べたくない」と漏らしました。その瞬間、父が「男のくせに何を言っとるんや!」と激しく叱り飛ばしたのです。
「男なら、そんな些細なことにこだわるな」——父が伝えたかったのは、本質ではない小さなことにとらわれることの未熟さだったのだと、今になって理解できます。
それ以外は何でも自由にさせてくれました。毎日、川や池での魚釣りに没頭していても、何も言われませんでした。しかし、この「自由」こそが最大の教育でした。
親に「ああしろ、こうしろ」と指示される環境であれば、失敗した時に親のせいにできたかもしれません。しかし、すべてを任され、後押しされる環境では、最後の結果は自分で引き受けなければなりません。
「自分のやりたいことをやる代わりに、その責任は自分で取る」
この自己責任の意識と、物事の本質を自分で考える癖がついたのは、三木の自然と両親の放任主義が私に与えてくれた、何よりの財産でした。


