
進化を続けてきた「サクレレモン」の40年。栃⽊の...
6/14(土)
2025年
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設楽 洋 2025/06/02
僕は戦後の1951年生まれで、ミッドセンチュリーのど真ん中に生まれました。「新宿生まれの新宿育ち」とよく言っていますが、じつは生まれたのは中野の鍋屋横丁にある小さなアパートでした。2歳くらいの時に新宿に引っ越して、それから社会人になるまで新宿で暮らしていました。
また、戦後の高度成長期をずっと見てきた世代でもあります。まだ日本が貧乏だった時代に生まれて、25歳でビームスを始め、2001年、21世紀になった時にビームスは25周年、僕は50歳となりました。来年、ビームスの50周年を迎える時が75歳になります。四半世紀ずつの日本をずっと生きてきた人間です。
幼少期は、淀橋の青果市場「やっちゃば」の向かいで育ちました。父は、水産大学校に入学して船に乗っていました。僕が生まれて、太平洋の洋という名前をつけました。だから、「ひろし」ではなくて「よう」と読みます。僕が山派より海派なのは、父親が船乗りだったこと、僕に洋という名前をつけたこと。そのDNAが僕の中にもあるのかなと思っています。
大学を卒業した父親はニッスイに勤めていましたが、ある時、結核を患ってしまい、仕事を辞めなければいけなくなりました。僕はまだ2、3歳の頃で、あまり記憶はないですが、後で話を聞くと、母親は、僕の祖母からもらった柱時計以外はすべて質に入れたのだそうです。そのため、幼い頃は非常に貧しい家庭でした。
しばらくして、寝込んでいた父親の結核が治り、父は段ボール会社に就職しました。そうして2か月が経った頃、「必要なことはすべて覚えた」と言って、自分で段ボールのパッケージ製造会社を作り小さな町工場を始めたのです。いかにも父親らしいなと今でも感じています。
しかし、会社に勤めてたったの2か月で辞めたため、お金はありませんでした。そこで父は近くにあったダイワ電機という会社の社長から50万円を借りたそうです。そうして建てた町工場でした。ただ、町工場と言っても、家の戸をガラガラっと開けると隣がもう工場でした。まだ小さい頃でしたから、「工場に入っちゃいけないよ、機械がたくさんあって危ないから」と言われていました。
当時は工場の社員さんが4人、住み込みで働いていました。屋根裏部屋みたいなところに皆布団を敷いて、社員さんたちが雑魚寝していたのです。そして、母親が食事を作り、「ご飯できたわよ~」と声をかけると、皆さんはしごを降りてきて、幼い僕とともに食事をする。そんな日常を過ごしていました。