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2025

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    太平洋の橋となる──新渡戸稲造から学ぶ武士道の心

    太平洋の橋となる──新渡戸稲造から学ぶ武士道の心

    旧五千円札に描かれていた新渡戸稲造。名前は知っていても、その人生や考え方まで知っている人は意外と少ないかもしれません。しかし、新渡戸稲造が歩んできた道や大切にしていた心には、現代を生きる私たちにとって、大きなヒントが詰まっています。

    幕末の動乱に生まれた少年

    1862年、新渡戸稲造は盛岡藩の武士の家の三男として生まれました。家には外国の本が並び、小さいころから西洋へのあこがれを持って育ったそうです。5歳のときに父が急に亡くなり、母が一人で子どもたちを育てることになりました。
    母は稲造に、

    「父や祖父の子といわれるように、偉い人にならねばなりません」

    と言い聞かせ、読み書きだけでなく、簡単な英語も習わせました。当時は明治維新の直前で、侍の時代が終わろうとしていました。世の中が大きく変わっていく中で、新渡戸稲造の少年時代は変化にあふれていました。

    新時代の学びを求めて

    9歳のとき、新渡戸は叔父の太田時敏の養子となり、東京へ行きます。伝統と新しさが混じり合う東京で、外国人の先生から英語を学び、13歳で東京英語学校(今の東京大学教養学部)に進みます。新渡戸の語学の才能はとても優れていました。

    15歳になると、農学を学ぶため、新渡戸は札幌農学校に入学します。明治天皇が新渡戸家の開拓事業を賞賛したという逸話が、農学を目指すきっかけになったと言われています。札幌農学校はアメリカ流の新しい考え方があふれる学校で、内村鑑三や宮部金吾と出会い、生涯の友情を育んでいきます。

    新渡戸は元々活発な性格でしたが、キリスト教との出会いから変わっていきます。武士の家に生まれた彼は、札幌農学校の雰囲気や信仰にひかれ、洗礼を受けました。それからは、自分自身と向き合う時間が増え、「モンク(修行僧)」と呼ばれるほど落ち着いた青年になりました。

    失われた家族、胸に刻まれた手紙

    18歳のとき、新渡戸は久しぶりに故郷に帰ります。しかし、母の危篤を知らせる電報とすれ違い、着いたときには母はすでに亡くなっていました。彼は母からもらった手紙の束を大切にして、命日には部屋で静かに読み返したそうです。家族を失った悲しみが新渡戸の心に深く残り、「何のために生きるのか」という問いにつながっていきます。

    「太平洋の橋」となるという決意

    札幌農学校を卒業した後、農政や英文学を学ぶため東京帝国大学に入学します。その面接で

    「願わくは、われ太平洋の橋とならん」

    と語った話は有名です。しかし、東大の授業に満足できず、23歳で退学。アメリカのジョンズ・ホプキンス大学に行くことを決断します。

    この決断は、当時の日本ではとても珍しいことでした。名門大学を自分から中退し、私費で海外に行く――理想を持ち、それを行動で示すことが新渡戸稲造の生き方だったのです。

    異国での出会い、そして国際結婚

    アメリカで新渡戸は、キリスト教の一つであるクエーカー教徒の集会によく参加するようになります。そこは、形式より内面の信仰を大切にする穏やかな雰囲気でした。メリー・エルキントンという、のちに生涯のパートナーとなる女性ともこの集会で出会います。

    メリーとの国際結婚は、両家や周囲から強く反対されました。白人の上流家庭の娘が日本人に嫁ぐことは、当時の常識では考えられないことでした。しかし、二人は偏見や差別を乗り越え、愛と信念で結ばれます。新渡戸にとって、この結婚も「太平洋の橋」を実現する大切なことでした。

    ドイツ留学、そして博士号取得

    新渡戸は明治政府の留学制度でドイツへ行きます。ボン、ベルリン、ハレの各大学で農業経済や統計学を学び、ハレ大学では日本初の農学博士号を取ります。新渡戸の「日本土地制度論」という論文は、日本の農政に深い示唆を与えるものでした。

    帰国後は札幌農学校の教授となり、英語や農学、統計など様々な分野を教えながら、学生に人としてどう生きるかを説き続けました。知識や技術よりも、まず人間としてどう生きるかを重視したのです。

    遠友夜学校──自らの悲しみを社会の力に

    新渡戸夫妻には、幼くして亡くなった子どもがいました。その深い悲しみの中、メリー夫人の実家で育てていた孤児の女性が亡くなり、遺産が夫人に送られてきました。新渡戸夫妻はそのお金で、働きながら学びたい若者のための「遠友夜学校」を作ります。授業料は無料、教科書も学校が用意し、札幌農学校の学生たちがボランティアで教えました。50年で6,000人もの若者が学びました。
    私的な悲しみを社会への貢献に変える――この姿勢も新渡戸らしい特徴です。

    教育者としての新渡戸稲造

    新渡戸は、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京女子大学初代学長など、教育者としても多くの役職をつとめました。特に一高では、欧米の自由で新しい校風を取り入れ、多くの人材を育てました。しかし、保守的な勢力から批判され、やがて校長を辞めることになります。

    新渡戸が一貫して大切にしたのは人格教育です。知識やスキルを身につける前に、常識や品性、勇気や誠実さなどの人間力が大切だと説きました。この考え方は、現代の経営者やリーダーに求められる資質とも重なります。

    世界へ──「武士道」と国際連盟

    1900年、新渡戸は英語で『武士道』という本を書きます。「日本人の道徳は武士道に根ざしている」と伝えたこの本は、世界各国で翻訳され、当時「野蛮で戦争好き」と思われていた日本のイメージを大きく変えました。

    武士道の核心は、仁・義・礼・勇・誠・名誉・忠義です。不正や卑劣を嫌い、人として正しく生きること。新渡戸は「武士道は知識を重んじるものではなく、行動を重んじるものである」と語りました。どんなに高い理想があっても、行動しなければ意味がありません。

    1920年、世界初の国際平和機構として国際連盟が作られると、新渡戸は事務局次長に選ばれ、スイスのジュネーブに7年間住みました。オーランド諸島の領土紛争などを調停役として成果をあげ、日本人が国際社会で活躍できることを身をもって示しました。

    最後まで橋となるために

    次第に軍国主義が強まり、アメリカとの関係も悪化し、日本は国際連盟から脱退します。新渡戸の理想と現実の差は広がっていきました。それでもあきらめず、講演で平和の大切さを伝え、国際理解のために新渡戸は尽力しました。

    1933年、太平洋会議のためカナダに渡った新渡戸は、現地で病気になり、71年の生涯を終えます。新渡戸が命をかけて架けようとした「太平洋の橋」は、戦争によって道半ばとなるも、戦後の日本と世界の平和や発展は、新渡戸の夢の続きでもあります。

    終わりに

    新渡戸稲造は、決して派手な成功者ではありませんでした。時代の流れに苦しみ、理想と現実の間で悩み続けた一人の人間です。それでも彼は、最後まで「太平洋の橋」になろうと尽力しました。

    お札の顔の奥にあるこの物語を知ることで、あなたの仕事や生き方も、きっと誰かと誰かをつなぐ架け橋になるはずです。新渡戸稲造の生き方を胸に、ぜひ自分らしい橋をかけてみてください。

    #新渡戸稲造#武士道#偉人伝#リーダーシップ#人格教育#グローバル人材#国際理解#教育#社会貢献#平和

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