
飲食で「非日常空間」の創造を――心を開放できる場...
6/27(金)
2025年
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ビジョナリー編集部 2025/06/26
1922(大正11)年の創業から100年以上の歴史を刻むオタフクソース株式会社。今や「お好み焼きソース」と言えば誰もがその顔を思い浮かべるが、その道のりは決して平坦ではなかった。ソース業界では後発でありながら、いかにして独自の地位を築き、広島から全国、そして世界へと羽ばたくことができたのか。
その強さの源泉は、創業以来ぶれることのない「人に喜んでもらいたい」という信念と、顧客にとことん寄り添う「三現主義」にあった。8代目として会社を受け継ぐ、代表取締役社長の佐々木孝富氏に、同社の歴史と経営哲学について伺った。
私の聞いている創業時の話では、創業者夫婦は、何よりも「人に喜んでもらえることが好きだった」ということです。その純粋な想いから、1938(昭和13)年にお酢づくりと出会い、「これこそ天職だ」と心から感じたといいます。自分たちがつくったもので人が喜んでくださる、その光景が何よりの喜びだったのです。
ソースづくりを始めたのは戦後のこと。「これからは洋食の時代になるから、ソースをつくったほうがいい」という取引先の方からのアドバイスがきっかけでした。はじめにつくったのは、当時一般家庭でも需要が拡大していたウスターソースです。一般的にウスターソースは野菜果実や香辛料を原料にして製造するのですが、当時は製法もわからず、原料を大阪まで買いに行くところからスタートし、手探りで作り始めたそうです。しかし、このソースは全く売れませんでした。当社がソース業界の最後発として参入したことも要因のひとつだったと思います。
転機が訪れたのは、「お好み焼き」との出会いです。もともと駄菓子だったお好み焼きが、「食事」として楽しまれるようになってきた時代で、広島には多くのお好み焼き店や屋台も登場していました。当時お好み焼きに使われていたのはウスターソースで、お好み焼き店に営業に行ったところ、ウスターソースは粘度が低く、鉄板の上に流れ落ちてしまうという店主を悩ませる状況を知ります。その悩みを聞き、「それならば、私たちがお好み焼きに本当に合うソースを作りましょう」 と提案しました。さまざまなお店の方と「もっと粘度があった方がいいですね」「味は強すぎず、甘みと酸味のバランスがとれたまろやかなほうがいいですね」といったことを、膝を突き合わせて話し合いを重ねました。
試行錯誤の末に日本で初めてのお好み焼き専用ソースを開発し、1952(昭和27)年に発売を開始しました。これが私たちのソース事業の原点であり、お客様の声に耳を傾けお客様とともに作り上げる、という企業姿勢の礎となっています。
私たちの成長の背景には、他社とは全く異なる戦略がありました。当時、大手メーカーのソースは「ウスター・中濃・濃厚(とんかつ)」というJAS規格の分類で商品を展開するのが一般的でした。しかし私たちは、「お好みソース」「焼そばソース」「たこ焼ソース」、さらには「らっきょう酢」といったように、全て専用品メニューの名前を商品名にしたのです。これは、使うお客様の立場に立った「メニューの独自開発」であり、大手が進出できないユニークなものとなったのです。これが独自の市場を切り拓くブルーオーシャン戦略でした。
そしてこの戦略を支えたのが、卸業者を介さずにお客様と直接対話する営業スタイルです。お好み焼き店を一軒一軒回り、「このソースを使ってみてください」と紹介し、「もっとこうしてほしい」という声を聞き、改良を重ねる。時にはお店の掃除を手伝ったり、お店の売上に貢献するためにのぼりやヘラ、ソースポットといった備品まで「私たちが用意しましょう」とオリジナルでつくり揃えたりもしました。最後発だからこそ、「モノを売るのではなく、コトを売る」 という姿勢で営業をしていきました。
こうした地道な活動は、大変な手間がかかるため、他社はなかなかやりません。しかし私たちは「人に喜んでもらいたい」という一心で、お客様のために何ができるかを考え抜き、行動し続けました。業務用でいうと、お店から「味が合わない」と言われたら「じゃあ合うものを作りますよ」と、どんどん作るのです。社内で常に飛び交っている言葉に『三現主義(現場・現物・現実主義)』があります。例えばなにかクレームがあれば、すぐに現場に行き、現物を見て現状を見極めるのです。こうした心がけの積み重ねによってお客様との強い信頼関係を築き上げることができました。これこそが、後発メーカーであった私たちが市場に根付くことができた最大の理由ではないかと考えています。
その後、広島では家庭用ソースのシェアが7割を占めるまでになりましたが、お好み焼き文化のなかった関東では、まずお好み焼きの認知を高め、お店を増やさなければ、商品が広まりません。そこで催事への出店や試食販売などを地道に行い、お好み焼き店を開くための研修なども実施して、お店を増やすことや味を知ってもらうことに力を注ぎました。そしてようやく関東でも、広島と同様、お店の方々一人ひとりと真摯に向き合うことができるようになっていったのです。
創業者は「ともに仕事をしてくださる方も“縁”だから」と、常に社員を大切にしてきました。その想いは今も企業風土として深く根付いており、経営者と現場の距離が非常に近いのが特徴です。私の父の代では、兄弟経営で隠しごとをしないために社長室を設けず、皆が同じ部屋に机を並べて仕事をしてきました。そのオープンな文化は今も引き継がれています。
その象徴が、2016年に導入した「さん付け制度」です。それまでは「社長」「部長」といった役職で呼んでいましたが、組織のヒエラルキーがフラットな議論を妨げるのではないかと考え、全社員が役職ではなく「さん」付けで呼び合うようにしました。
同時に、個人の能力ではなく「仕事の役割」に対して報酬を支払う「役割グレード制度」へと人事制度を刷新しました。これにより、社員一人ひとりが自らの役割を意識し、より主体的に仕事に取り組む環境が整ったと感じています。
また、私が社長に就任してからは、社員との「車座(くるまざ)」を積極的に行っています。昨年は年間30回以上、全国の拠点で社員と直接対話しました。仕事の真面目な話から雑談まで、お酒を酌み交わしながら本音で語り合う。ほかにも、社内のイベントや社員旅行も継続して行っています。こうした機会を通じて、社員との距離はさらに近くなり、組織としての一体感が生まれます。主役は経営者ではなく、現場で頑張る社員一人ひとり。彼らがやりがいを持って輝ける環境を整えることが、経営者の最も重要な役割だと考えています。
私たちの目は、早くから世界にも向いており、初めてアメリカに法人を立ち上げたのは1998年のことです。お好み焼き文化を広めようと、一生懸命説明しましたが、この時は全く通用しませんでした。当時まだ日本食そのものがあまり受け入れられていなかったなか、唯一、当時のアメリカで好まれていたのが、「カリフォルニアロール」でした。私たちはこれに着目し、現地のシェフと対話する中で、粘度があってかけやすい「寿司ソース(Sushi Sauce)」を開発したり、クリスピーな食感を好むアメリカ人のために改良した「天かす(Tenkasu)」を発売したりしました。こうした商品が好評で、現地のお店やお客さまとの関係を構築しながら、徐々にお好み焼きや焼きそばを広めていくことができたのです。
この経験から、海外展開の鍵は、現地の文化を深く理解し、そのニーズに応えるローカライズにあると学びました。近年、インバウンドの増加で日本食への関心が世界的に高まっています。日本で食べたお好み焼きの味が忘れられないという方が増え、私たちの海外事業にとって大きな追い風となっています。この機を捉え、アメリカをはじめマレーシアや中国にも工場を設立し、現地の食文化に合わせた商品開発と、日本の「鉄板粉もの文化」の普及を両輪で進めています。
社名の「オタフク」は、実はもともと、創業者の神仏への篤い信仰心から生まれた名だと聞いています。「多くの人に福を広める」という、まさしく創業者の気持ちが現れている言葉でもあり、その思いも込めるようになりました。私たちの原点です。
私が8代目として経営の舵取りをする上で、常に心にあるのは、創業以来、代々受け継がれてきた言葉です。ものづくりにおいては、「一滴一滴に、性根(信念)を入れて」 という言葉を大切にしています。お客様の口に入るものだからこそ、絶対に安心・安全なものを、心を込めて作らなければならないという誓いです。また、先々代からは 「舵は重いほうに切れ」 とも教わりました。安易なほうに流されるな、困難な課題に向き合ってこそ、他社が真似できない価値が生まれる、という意味です。
そして何より、「すべて因縁因果だから」 という言葉。自分の行いは自分だけのものではなく、子や孫の代まで影響する。だからこそ、常に正しい生き方をしなければならない。これらの言葉が、日々の判断に迷った時の、私たちの経営の羅針盤となっています。
今後のビジョンを語るなら、世界中で日本の誇る「鉄板粉もの文化」、つまりお好み焼き、焼きそば、たこ焼きがどこでも食べられる世界を実現したい ですね。もちろん、ただ商品を売るだけではありません。メインは調味料かもしれませんが、食を通じて世界中の人々を笑顔にすることに貢献したい。
日本の人口が減少していく中で、企業の成長には海外展開が不可欠です。しかし、焦らず、一つひとつの国や地域のお客様と向き合い、信頼関係を築いていく。その地道な歩みこそが、オタフクソースらしさだと信じています。道はまだ半ばですが、これからも「思いやりの心」と「縁」を大切に、挑戦を続けていきます。